昨日のヤフーの12星座占いでいちばん運勢がよいのは「やぎ座」で(私はさそり座)、自己表現力が高まる日とかなんとか。クリエイティブな感性が高まる日とかなんとか。『自己表現の手段が見つかる日。クリエイティブな感性が高まるときです。以前は難しかったこともテクノロジーの発達で可能になっているので、ぜひ新しいことに挑戦しましょう。ブログで日記を公開したり、写真を撮って発表したりすることもできそうです。パソコンがあれば音楽や動画を作成することも難しくありません。自分の気持ちを形にして人に伝えるのがとても幸せなことに感じられ、大きな喜びを見つけることができるでしょう。』22日から田舎に帰っていて、家業の手伝いのため。陶器市があるので。といってもうちは生産ではなくどちらかといえば卸売りに近いのか。毎日、武雄温泉。あとはなんだ、もう眠いので、書くことが思いつかない。リビングのテーブルの上に、エンツォ・マーリ「プロジェクトとパッション」が置いてあって、親父が読んでいる模様。あと2冊ネットで注文したとか言っていて、1冊はくれるらしい。もう1冊は授業で使うとかなんとか言っていたような。なんの授業なのだろうか。買おうと思っていたけどくれるのならもらう、と言ったら、そいぎ買いんしゃい、まなちゃん(妹)にやろう、と言い出すので、まなにやっても結局はおいんとになっばい、読むひまあんしゃれんけん、と言い返して、ひとまずもらう。前回の日記の『プロ/アマっていう区別に意義は見出せないし、芸術と労働を同次元で捉えられるのかどうかは微妙なところでもあるし。』という一文のまえに、『身の丈にあったことをすればいいと思うし、』といれていて、これをいま書くと意図とは無関係な部分で直接すぎるというというか、すこし語弊があるのであとでカットしたのだけれど、いままた復活させて、小さい頃にじいちゃんに、おまえは小食だから無理にでもたくさん食べて胃袋を大きくしないといけないとよく言われていて、無理をしてキャパを増やす、っていうのは、あるかもしれないし、すくなくともないとはいえない。といっても、世の中にたくさんの商品・作品・イベント・・・もろもろがあるにも関わらず、なぜあらたに生産・制作するのかという素朴な疑問に、キャパのはなしだけで答えることはできなくて、やはり根本の問題は、人間の「自己表現」欲というものが完全に囲い込まれコントロールされてしまっていること、なのかもしれない。「自己表現」とかいうとき、ブログとか写真とか音楽とか演劇とか美術とかそういういわゆる「表現」に限られてしまうわけで、料理や農業や接客でさえ広い意味では「自己表現」であるにも関わらず(そのうちこれらも「自己表現」に取り込まれるかもしれない)、「自己表現」欲が、俗にいう「クリエイティブ・創造的」なことでしか満たされない、というふうに思われているのはなぜだろう。仮にこういう囲い込みがゆるくなったとしても、「表現」するために、第三者から道具や発表機会を買って「消費」しないといけない限り、「創造者という消費者」が無限に増えていくだけだし、これに関していえばそんなに問題はないのかもしれないけれど、うっかり広告に欲望を刺激されて、自分にとって必要のない余計なものを「買って」しまうことがあるように、うっかり広告に欲望を刺激されて、自分にとって必要のない余計なものを「つくって」しまうこともありうる。そもそも、あらためて「自己表現」とかいうこと自体がおかしいような気もする。自分の身振りや立ち居振る舞いですら「自己表現」であるのに、なぜ、なんのために、ブログとか写真とか音楽とか美術とかそういうものだけが「自己表現」であるかのように言われているのだろう。