瀧口範子「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」は昨日、彼女の家で仕事で寝不足の彼女が夕方から寝ているあいだに読了。六甲に帰ってきてから、さっきか、これと一緒に買ったと思われる「せんだいメディアテークコンセプトブック」を読み始める。外は暑いのに内は寒いというねじれのため、頭痛。電車、コンビニ、古本屋、どっこも寒い。外から入ったときはおお涼しいと思うが、汗もかいているしだんだん寒くなる。さっきトイレを出てから、イブだかなんだかの鎮痛剤を飲む。金曜日の夜から母ちゃんが西宮のばあちゃんとこに来ていて、空港まで迎えに行った姉ちゃんと空港に降り立った母ちゃんと西宮北口で待ち合わせる。土曜日もばあちゃんちへ。姉ちゃんは16時ごろ行って、私は18時ごろか。着いたのは。マンションのエントランスを入ると向こうから姉ちゃんがやってきていて、そのまま関西スーパーへ。帰ると、ばあちゃんは不機嫌で洗濯機などがある脱衣所に立て篭もっている。どうやら、おじさんの部屋の大掃除をみんなでやったため、混乱というか、まあ混乱か、混乱したのだと思われる。まず、なにをやっているのかが分からない。説明はされたと思うけれど、いま行われているこれをなぜやらないといけないのかも分からないのだと思う。だから不安になる。自分の家がどうなるのかと。あとは、大掃除を手伝えない疎外感もあると思う。手伝おうにもそれがなにを意図してどういうやり方で行われるかが分からない。聞いても忙しそうでちゃんと答えてくれないし、その説明もどうにも頭のなかではっきりしない。というようなことがあったのかなとばあちゃん抜きの食卓でご飯を食べつつ想像する。一回へそを曲げてしまうと、なかなか難しい。ちょくちょくみんなが様子を見に行くが、食べ終わったあとも出てこない。こういうときは、とにかくはなしを聞くしかない。ばあちゃんの言い分を聞く、というより、引き出すといった方が近いと思うが、怒っていること、混乱していること、などを引き出して、自分の状態を把握するのが必要だと思う。30分か40分かもっとか、経ったころ、だんだんと大掃除の件とは別の話題も出てきて、顔の感じと口調が変わってくる。トイレ行く?と聞くと、行こうかなと動きそうなので、トイレはこっちだよと促すが、脱衣所の入り口あたりまでがいまの限界のよう。トイレに行きたいわけではないのかもしれない。無理に促すとよくないので、脱衣所の入り口の段差に腰掛けてもらう。そこでまたはなしを聞く。母ちゃんと姉ちゃんも来て、廊下に座る。しばらくすると、しばらくもしないうちに、母ちゃんは廊下に横になって寝てしまう。壁によりかかっている姉ちゃんも眠そうだ。なんならばあちゃんも眠そうだ。お茶を渡す。飲む。そろそろ気分も変わったみたいなので、促すと、と書いたものの、そもそも促したかどうか、よく覚えていない。母ちゃんを起こして、リビングに行こうか、ということだったかもしれない。六甲のオランダワッフル屋さんでワッフルを買ったらば、お店のおねえさんにミッフィー展行かれました?と聞かれて、いや行ってないです、というようなことを言ったかどうか、不意をつかれたので、いや、とだけ言ったような気もするが、商店街からもらったやったか、オランダつながりでもらったやったか、壁には8枚セットのワッフルをふたつ以上購入のお客様にはミッフィー展の招待券を云々という張り紙がしてある。店主のオランダ人男性曰く、カノジョトイッショニ、とのことなので、ありがたくいただき、彼女に聞いてみると行くとのことなので、日曜は神戸大丸のミッフィー展。とても単純で簡潔なイラスト。こういう最小限の要素で、物理的な動きやこころの動きを表現するのはたいへんだなと思う。角が丸くてほんのりと白い額がいいなと思っていたら、深澤直人デザインだった。絵本閲覧コーナーのテーブルとスツールも深澤直人。二次元の角丸の四角がそのまま3次元になったようなかたち。赤・青・黄・緑・茶のブルーナカラー(らしい)の5色。9階のギャラリーから8階のグッズ売り場に降りると人がわんさか。彼女は図録を買い、私は「うさこちゃんとじてんしゃ」を買ってプレゼントする。ボブ・ハリス「とりあえず分かる!世界の紛争地図」が気になる。なぜ建築に興味があるのか分かってきた。それ(建築に興味がある理由、または建築というもの)は人に使われることを前提にしているからだ。使われても使われなくても別にかまわない、もしくはどう使われようと別にかまわない、というものはひとつとしてない、と思う。いちおう。建前としては。使われ方や人間のふるまいを規定、というよりもそれらの土台となると言った方が正しいか、するのが建築物であって、物体としての建築物はその媒体にすぎない、ということになっているっぽいので。とはいえ、使われ方以外の、感性としての居心地や気持ちよさみたいなものももちろんある。このへんのバランスがおもしろい。しかもそれらが物理的な物体として成立するというところも。やっぱり建築以外の芸術分野は、建築が芸術分野かどうかは知らんけど、「使われる」というよりも「表示する」もしくは「顕れ(させ)る」の方が強い。抽象的な「やり方」や「ルール」として、「使われる」、ふるまいや行動の土台になる、っていうのはあるけど。とはいえこういうタイプのはどうしても、ある目的を持ってこういうこと(動き)をしましょう、みたいなことにしかならない。たいていが枠が広いか狭いかの問題で、枠の中の行動いかんによって枠自体も改変できるようにするのはなかなか。そういうオープンな環境づくり、プラットフォームつくり、っていう方向はむずかしいのか。抽象的なルールじゃなくて、具体的なツールだけがある、みたいにしたらいけたりするのかしら。福永信の小説、「星座から見た地球」というのが出ていることをいま知った。長編。