ばあちゃんと母ちゃんとタクシーに乗って、ばあちゃんいきつけの美容院へ。ばあちゃんが髪を切ってもらっているあいだ、アクタ西宮の無印へ。そうこうしていると姉ちゃんも合流。「綿ギャバリラックスパンツ・カーキ」と「ベルギーリネン混パンツ・グレー」を試着してみるが、いちばん小さい76でもすこしでかい。73がちょうどいいくらいなのだけれど。ベルトを締めればいけるけど。「綿ギャバリラックスパンツ・カーキ」はわりといいかなと思うが、「ベルギーリネン混パンツ・グレー」はちょっと質感が気にいらない。昨日ガーデンズのユニクロで見た「(+J)ワークパンツ+」のブラウンは生地の質感、色、サイズともにいいのだけれど、ちょっとだけかっこよすぎる気がする。3年くらいまえに無印で買った薄手で太い薄グリーンのズボンがくたびれてきたので、薄手で太い夏でもはけるやつを探していて、なんか適当なものがないものか。平川克美「経済成長という病ー退化に生きる、我ら」に、著者の娘さんが携帯電話を使い始めたときのその使い方についてのはなしで、「電話代がものすごいので尋ねてみると、自室で友達と通話状態にしたまま置きっぱなしにしてお互いにテレビを見たりしながら時々はなしかけたりしていた」というようなものがあって、これはツイッターだな!と思った。ツイッターやったことないけど。携帯電話を通話状態にしたまま置きっぱなしにすることで音声を介して時間を共有することになる。厳密には、空間は共有しているわけではないけれど、時間を共有しているので、仮想的な空間共有をしていると思う。で、それを共有する相手が「特定の友達」から、「ある範囲における誰か」にスライドするのはおそらく必然で(たぶん、「誰と」共有するか、よりも、誰かと「共有する」ことの方が重要だから)、そうなるともうそれはツイッターだな!と思った。まだツイッターやったことないけど。で、私のいまの感じでいえば、ときどき日記を記すことで、なんらかの個人的な出来事を誰かしらと共有する、というくらいのペースで十分だし、なんならこれも別になくてもかまわない感じもする。ツイッターみたいにリアルタイムに共有するのは、いまのところは、ちょっと無理っぽい。面倒すぎる。長文にすることで、実際の文字数以上に間延びさせることが重要だったりもするし。長文でなくても、不必要に正確だったりするのは、かなり重要かもしれない。今日の日記の、ズボンを試着してどうちゃらというのも、最初は「今日はふたつズボンを試着したけれども〜」みたいに書き始めていて、途中で改めた。身に起こったなんらかの出来事をごく単純にひとことで記述してそのあとそれについてどう思ったか書く、というのが書き方としては、いちばん楽なのだけれど、それをやるとどうもダメな気がする。細かく思い出してみることになにか意味がある気がする。ごく単純に重要なところだけ思い出すといろんなものが捨象されてしまう。明日は、ばあちゃんと母ちゃんと、おじさんの運転する車で、ばあちゃんの弟、大叔父さんか、のお見舞いに行く予定。10時に迎えに来るとのこと。