さっき、チャリで六甲道の100均に向かう途中に思ったのは、自分が誰かの表現をみるとき、「自分がその作者だったら」という視点で見ているかもなあ、ということで、そうするとわりあいなんでもおもしろい。たとえるなら、赤ちゃんという存在は、自分の赤ちゃんであれ他人の赤ちゃんであれ、「誰の」とは無関係にかわいい、というのと似ている。よくわからないたとえだけれど。親=作者の目線で作品を子としてみてみる、ということかもしれない。単にえこひいきというだけかもしれないけれど。しかし、どうしても作者になったつもりになれない表現というものもある。なので、嫌いな表現があるというよりも、その表現を行う作者の意識に同化できないものがある、といった方が正しい。そしてたいていの場合、自分の偏見がそれを邪魔している。とりあえず、確実なのは、自分の偏見、考えとか趣味とかをすべていったん保留してみると、なんでも面白い、ということと、自分の考えとか趣味に沿ってさらに面白がるためには、やはり保留を解かないといけないということ。面白がり方にはこういうふたつの階層がある。前者はいったん作者の面白がり方を全面的に受け入れてそれになりきる。後者は作者の面白がり方をベースに自分の面白がり方を作りつつさらに面白がる。前者は、あらゆるすべての表現に適用可能だけれど、後者は自分の考えや趣味の範囲にとどまる。つまり、作品の持つ意識・考え方と自分の持つ意識・考え方が折り合わないと、それ以上先には進めない。なぜこんなことが起きるかというと、個々の作者が自らの私的なものを公的なものに置き換える努力をすることなく世に出しているからだ、と思う。よくある形骸化したやりかたでみんなやっていて。こうすれば、公的になっているであろう、というような。テレビで言っていることは、多数者の意見なのであろう、というような。絵を描いてギャラリーで展示しさえすれば公的なのであろう、曲をつくってライブハウスで演奏しさえすれば公的なのであろう、というような。ちなみに「萌え」要素への欲求に突き動かされる面白がり方は、偏見を保留して作者になりきる方法、偏見の保留を解いて自分なりに面白がる方法、このどちらもに潜んでいる。けれどもそれが全面化してしまうと、すべての面白がりが理性を介さない身体的な反射になってしまう。これはこれでいいのかもしれないけれど、「身体的な反射」=「我を忘れる」なので、個人的にはそうなってしまうのがなんだか怖い・・・。