なんだか分からないけれど、さいきん目の奥が痛いというか、ずーんと頭の前の方が痛いというか、これは偏頭痛なのかどうか、梅雨だからかなのかどうか。「我を忘れる」ことと、それを他人と共有すること、を強要するので、音楽のライブとカラオケと飲み会は嫌いだ。とか書くと、ものすごく気難しくて協調性のない人間のように見えるけれども、こう見えてかなり協調性はあるし、その気になればかなり社交的だし、人当たりはものすごくよいので、だから、なんだ。性善説、というか、とりあえず、人付き合いは相手を全面的に信用してから始める。ライブでもカラオケでも飲み会でも行かないといけないものには行くし。なるべく行きたくないけど。もちろん面白そうであれば行くけど。このまえガーデンズのHMV畠山美由紀さんのベストアルバムが出ているのを発見して、ちらっと試聴してみたが、ジャケがどうも、どうかしら。ご本人の写真でいいじゃんと思うけど。それはいままでやってきたから、変えてみたのか。こういうオシャレ系イラストはどうも。オシャレであること以外に意味が生まれ得ないじゃん、こういうの。そういうわけでもないか。見方が分からんだけかもしれない。昨日は、ブックファーストに行く途中でセブンイレブンに寄り、立読みしてから野菜ジュースを買い、うちの近所にいるお兄さんがレジにいて、この人はなんだか若者特有のチンピラっぽさというかいきがった感じがあるけれど、レジにいるときはすごく気もちのよい人なので、たぶん気持ちのよい人なのだと思う。いまたまたま若いから若者っぽいのだろう。性善説。野菜ジュースを飲みながらブックファーストに向かい、六甲駅のゴミ箱に捨てる。野菜野菜ジュースを飲んだあとのゴミを。その途中、アズナスの角を曲がるところで床に4つ折りにされた紙が落ちていて、「鬼ごっこ」という文字が見えた。気にはなったがとりあえずゴミを捨てて再度そこを通るときに拾ってみた。すると、こういうチラシだった。

♪イベント告知♪
ごっこ IN 阪急神戸線


★日時:7月12日(日)
 鬼ごっこ:14:00〜17:00
 飲み会:17:30〜20:00
★集合:阪急三宮駅 西口 マクド前14:00
★解散:阪急六甲駅 20:30頃♪♪
★参加費:鬼ごっこ¥300(切符代別)
・飲み会まで改札の外に出ないので、
 切符は阪急三宮〜飲み会のある阪急六甲駅までの¥180でOK☆
・飲み会費¥2000〜2500です♪♪
★軽く内容説明
 3色にわかれ、青→赤→緑の順に追い、ポイントを奪い合う♪♪
 改札内と電車内でポイントを奪い合えっ!!って感じです♪♪
 上位には商品があります♪♪
 詳しくはmixiコミュ『○○○○○○○〜なんやかんや』まで★★
★連絡先
 神戸大学2回 ○○○ ○○○○@ezweb.ne.jpまで参加する人はメールください
 飲み会から参加も受け付けます!!♪♪


〜☆○○○○○○○☆〜

なんかまた子どもがそのまま大人になってしまった、みたいなことを思いつくもんだなあと。面白そうではあるけれど、公共の交通機関だしなあ。とはいえ、ふと思ったのは、ちゃんと許可をとりさえすれば(とれるわけないけど)、いまどきの「アートイベント」とかいうものとして、ありそうな感じでもある。発想そのものは陳腐だけど、遊びとしては楽しかろう。阪急電車か、神戸大学に通報するという手もあるのだけれど、放っておこう。7月12日の14時から17時までのあいだに阪急神戸線が、車両接触などによる人身事故で遅れることがあれば、高い確率で「鬼ごっこ IN 阪急神戸線」のせいだろう。「3色にわかれ、青→赤→緑の順に追い、ポイントを奪い合っている」人たちを、さらに追っかける、という遊びをしてみてもいいかもしれない。仲正昌樹「今こそアーレントを読み直す」読了。石川忠司衆生の倫理」と合わせて読んでみると、さらに面白いかも。ちょっと通じるところがある。理論と実践という二分法に感じる違和感がすこし整理できそうでもある。この二分法でよくあるのが、実践の立場に立った「内に引き篭もって考えてばかりではダメだ」というものと、理論の立場に立った「やみくもに実践するばかりで内容が伴っていなければダメだ」というものがあるのだけれど、どちらもただ党派的に自分の立場の正当性を主張するだけで、あまり面白くもなんともない。私が「やみくもに、やりたいからといってやるのもどうなの?」というようなことを言うと、すぐに「行動のないところに結果もない!引き篭もらずに外に出ないと!」みたいな反論が返ってくるのだけれど、私がいいたいのはそういうことではなくて、理論と実践のバランスをどうにかした方がいいじゃないかということで、つまるところ、実践ともいえない、ただ「やる」ことの意義だけを重視しすぎるものごとが多いような気がするから、どうしても理論の側に立たざるをえない。別に私自身はどっちでもいいし、どっちが優れているとも思わないので、ほんとは嫌なのだけれど。とにかく「行動」してないと不安になるっていう人は、なぜ自分がそうなのかを考えた方がよいと思う。まずは。それを考えないために「行動」するのであれば、本末転倒というか、「行動」しながら考えられるくらいの余裕があればよいのだろうけど、現実にはそんな余裕などない、にこしたことはないというのがひょっとすると本音かもしれない。このへんは私には分からないし、本人にも分からないかもしれない。もちろん、やってみないとわからないこと、というのはあるけれども、とはいえ、そんなにやってみないとわからないことっていうのはない。仲正昌樹「今こそアーレントを読み直す」の後半では、「理論/実践」が「観想的生活/活動的生活」や「観客/役者」、「傍観/現場」というふうにいろいろな視点で、考えられているのが、面白い。たしかに、実践を重んじる人は「現場」を神聖視するし、それゆえ「非現場」からの声をそれが「非現場」からであるという理由で無視する、なんてことは、よくある。そういう現場主義は、党派的な非寛容というか、余裕がなさすぎるというか、とにかくややこしいし、うっとうしい。行動する人のなかには、やたら「行動」に誘ってくる人がいて、そういう人は「行動」していないこと自体が悪であるかのように言ってくるので、非常にはた迷惑。新興宗教か。「行動」信仰か。「行動」原理主義か。余計なお世話だ。そういうなんだか余裕のない人は自分が「行動」に追い立てられているので、そうでない人がいるのが気にいらないのか、やたら巻き込もうとするので、要注意。理論と実践のバランスがとれた人は、ぜんぜんそうじゃないし、余裕がある。たとえば、野村幸弘さんとか。木下和重さんや江崎將史さんも。私は、、そんなに余裕はないかもしれない。こうやっていちいち文句をいうくらいだから。「なにかやらないと!」という強迫観念には、注意した方がよろしいと、私は思います。なにかやらないと楽しく生きれないわけでもないし、なにかやらないと自分の人生が無意味なわけでもない。あと、さっきの繰り返しになるが、アートする人のなかには、やたら「アート」に誘ってくる人がいて、そういう人は「アート」していないこと自体が悪であるかのように言ってくるので、非常にはた迷惑。新興宗教か。「アート」信仰か。「アート」原理主義か。余計なお世話だ。山本握微さんがこのような人たちと違うのは、ただ「やれ!」というのではなく、「いる」だけで表現だというのでもなく、山本さん曰く、『考え抜かれた一言を、大衆が放てばいい、ってこと。大衆の一人ひとりが、独自の作家性を持てばいい、ってこと。』に尽きる。自分にとっての「考え抜かれた一言」とはどういうものか、という問いを持ち続けることがまずは必要で、ある様式やカテゴリーやジャンルやなんかに厳重に守られた「よくある一言」を「自分でも」放ってみる、または放ち続けるだけ、で終わってしまってはあまり意味はないと思うし、はたから見る限り、面白くもなんともなかろう。いわゆる「プロ志向」と「行動原理主義」は通じるものがある。わかりやすい目標を立てたがるとか、結果よりも目指すこと自体が重要とか、アマ志向や行動しない人=観察者・傍観者をやたら目の敵にするところとか。気持ちは分かるけど。にしても「プロ志向」って意味不明なことばだよな。「志向」ってことはプロじゃないのよね。プロの意識でやるアマなのよね。なんだそりゃ。意識さえ高くあろうとすれば、自分は高いと思い込みさえすれば、プロ志向なのか?ますますよく分からない。。結果や過程ですらなくてたんに姿勢だけのはなしじゃないか。。そう公言すれば、いや、そう思いさえすれば、プロ志向。なにもプロ志向だけが、表現の向上心の拠り所じゃないのに、プロ志向は「プロ志向」だけが表現上の向上心を意味すると思っているから、ややこしい。遊びや趣味じゃないんだぜ!という。いやいや、遊びや趣味となにが違うの?というと、意識・姿勢が違うのだ!我々は背水の陣なのだ!という。いやいや、そんなん言い張ってるだけじゃん。うーむ、なんというか、「プロ志向」って内容の伴わない免罪符になっているというか、そう主張しさえすれば、自分のやっていることが、遊びや趣味ではないことになる、という勘違いがあるというか。だいたい遊びや趣味のなにが悪いのだろう。遊びや趣味=自己満足・クオリティが低い、なんて単純な論理は、自分たちのやっていることを正当化したい「プロ志向」のアマチュアが大声で叫んでいるだけで、そんな決め付けは不当だし、プロ志向のアマチュアがアマチュアを非難したところで、それでプロになれるわけではないし、表現の質が高まるわけでもない。アマだからといって、批評や批判、他人の視線から逃げているということにはならないだろうし。「プロ志向」や「プロ」だって同じようなものだと思うけど。アマとかプロとかプロ志向とかいうのは、もはやたんなるラベルでしかない。お金をもらうかもらわないか、もらえるようになることを目指すか目指さないか、は、表現の質においては、絶対的な基準ではない。個々に、他人の視線や歴史や自分の欲望やなんやかやとちゃんと向き合うかどうかだけだと思うけど。なんかなー、プロ志向の人たちのなかには、アマ志向いじめというか、そういう精神的な足の引っ張り合いをすることで自分の活動を正当化しようとする人がいるから、なんか気になるのだな。やたら自己満足、自己満足言うし。いまどき学生でもそんなの言わないんじゃなかろうか。だいたい、自己満足じゃない表現があるのかよ、と問いたい。デザインですら、そういう側面があるのに。というか、他人の満足を他人の視点で考えたことあるのか?誰かになにかを与えよう、自分は与えられるはず、なんて傲慢なことを本気で思っているのか??でも、プロ志向いじめをしてもしょうがない。精神的な足の引っ張り合いさえなければ、別に人間的に問題があるわけでもないのだろうし、とりあえず大丈夫だと思うのだけれど、これはなくならない気もする。人間という存在の性質として、そうとしか思えないときがある。もちろん、個々の人に対してどうこういうのではなく、「プロ志向」なる意識の持ちよう、思考の様式、についていろいろと気になるというだけで。被害妄想かもしれないし。アマ志向いじめと精神的な足の引っ張り合い、さえもプロになるための競争だ!って言われたら、もう笑うしかないけど。じっさい笑えるし。そこまでいったらもうギャグだ。弱いものがさらに弱いものいじめをして、自分の立場を正当化するという不毛さ。そういう競争がしたいのなら、他にもいろいろあると思うけど。なんだろうなあ、競争、というか、〜〜よりもすごいね!とか言われたいだけなのか。今日は、家の塀、というか、塀の内側に少しだけある土部分に生えた木の新芽に、羽化しそうなセミがいたので、姉ちゃんとひとしきり観察。ちょっとづつちょっとづつ出てくる。自分の重みでブラーンと逆さになってしまっていて、どうなることやらと思っていたら、動きが少なくなったので、解散した。さっき見てみたら、もういなかった。おお、いま調べてみたら、さかさになってから、10分くらいで羽がだんだん伸びてくるらしい。いちばん面白いところを見逃したかも。さっき見たときは、観察したセミがいたすぐ近くで、もう羽が伸びきった別のセミがじっとしていた。