17時20分の飛行機で伊丹へ。今回も母ちゃんがばあちゃんとこに行くついでに、というか、まあついでに神戸に戻る。そのままばあちゃんちでめし。西北から六甲まで阪急電車。六甲のブックファースト、CD屋はディスクファーストっていうのか、に貼ってあるアジアンカンフージェネレーション、略してアジカンのなにかの音源のジャケのポスターがどうにも気持ち悪い。女の子がギター、みたいなやつ。わざわざ略してアジカンのサイトにまで行って調べてみたところ、ソラニンの主題歌らしく、ソラニンってなんとかいにおさんのマンガだよな、ああでもその感じと合ってるな、どっちにも気持ち悪さを感じてしまうけど。なんというかな、自己愛的な悶々、みたいな感じが。ペリカン便にネットで再配達依頼。稲葉振一郎社会学入門“多元化する時代”をどう捉えるか」、レム・コールハース「錯乱のニューヨーク」、小沢昭一小沢昭一がめぐる寄席の世界」、たしか2700円くらい。ブックオフオンラインのサイトを見たら、「デューイ=ミード著作集〈12〉経験としての芸術」があったので、間宮陽介「市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか」と一緒に注文。飛行機が佐賀から伊丹に着くまで、すこし居眠りしつつ、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」の第三章「浮遊する〈私〉と政治」を読み終える。その都度、1章づつ読むとちょうどいい、本って。小説は難しいけど。自分たちの生きている土台にどういうふうにアプローチするか、っていうのは、そもそもそれをしようと思うかどうかの時点で、非常にむずかしい。仕事と趣味、労苦と気晴らし、のサイクルで生きちゃうからなあ。実際どうこうというより、自分たちの生きている土台にアプローチしようと思いたい、だけの場合もあるし。やたら、このままじゃいかん、この業界はいかん、これではいかん、きみたちそれでいいのかね、と「憂う」人ばっかりで、憂う人に同調して自分も憂いているつもりになっているだけだったりして、そもそも憂う人が憂いているつもりだけだったりもして。なんかかっこいいしね、憂いてると。っていうくらいの気持ちがわりとふつうだと思う。ああ、憂いてはるねえ、はー、そうですかー。という。おめえら!それでいいのか!っていうのが響く人っていうのもやはり限りがあるだろな。怒られたい人とかには響く。支配されたい人とか。人を支配したい人と人に支配されたい人が出会うと、強いつながりが生じる。もしくは、人に支配されたい人が特定の誰かを人を支配する人に仕立て上げてしまうってこともある。そういう意味で「ファン」っていう、なんというのか、行動様式か?心理?はなんだか危険に思えて、極力避けたい。そういえば、「aka」ってなんなんだろう。おっ、でた。『「also known as」の略。日本語に訳すと「〜としても知られる」「またの名を」「別名」。』とのこと。正確にはa.k.a.みたい。めんどくせぇな。