月曜はよなさんと会い、にんにくラーメンを食べ、彼女とその弟さんのためにモスバーガーを買って帰る。今日は2階でヤマト運輸を待っていたら、ゴトッという音が外からして、なにかと思いベランダから下を見たら、たぬきが塀のところに立ててあったコンクリートブロックの上に登ったため、ブロックが落ちたのだった。たぬきだ!と、携帯で写真を撮ろうとするけれど、もうけっこう暗いので、ちゃんと写らない。が、一枚だけ撮れた。わりあい丸々と太っている。たぬき!と声をかけてみる。もっと近くで撮ろうと玄関からそーっと出てみたが、向いのマンションの方に行ってしまった。左のほうを見ると、洗濯機の横に置いてある靴箱、いまは洗剤置き場になっているが、の上にミーコがいた。たぬきがいきなり現れてミーコもさぞびっくりしただろう。六甲のブックファーストで、ハンナ・アレント「人間の条件」を1545円くらいやったか。店員さんは私が財布を出しているあいだにさっさとカバーをつけてしまって、そのあと袋は要りますか?と聞いてくるので、袋もカバーも要りませんと言ったら、無表情に、カバーはもうつけてしまったので、とカバー付きの単行本を渡される。なんだか釈然としないので、カバーは阪急六甲駅のゴミ箱に捨てた。要らんもんはタダでも要らん。さいきんはもうカバーをつけないので。あったかくなってきて、お風呂で読まないというのもあるし、お風呂では新書とかの軽い(物理的な重さが)やつを読むので、たいていの新書のカバーはツルツルしていて湿気には強そうだ。えーと、帰ってきたら、うちのバイオ君のマウスがちょっと変。ときどき勝手にカーソルが右につーっと移動する。カーソルがつーっと右に移動するからにはマウス自体も右につーっと移動していてほしいものだけれど、マウス自体はじっとしている。これが気持ち悪さの原因のひとつ。えーと、いつからだ、7月18日(土)から26日(日)まで、FLOATで行われる山本握微さんの展示の特設サイトができている。→http://www.kiwamari.org/u/ 山本さんのサイトを見ていていつも思っていたのは、ちゃんとつくってある、というか、単純ながらもセンスがあるな、ということで、このまえ私が書いたことについて、書いてくれていた。→http://www.kiwamari.org/u/diary_06.html 引用する。

普通芸術自体の定義もままならないので、限界芸術と如何なる関係を持つかは難しい。共有するそうでしない、普通芸術の要素が二つあって、それは


1.芸術が生活手段でないこと(生活手段を別に得て、純粋な芸術を行うこと)
2.特殊な力に頼らないこと(普通でも、可能なこと)


……。この二つ、密接につながっているが、実際には独立してる、かな。まあ、この点が、普通芸術と限界芸術が、近いかな、遠いかな、って感じたり感じなかったりする分かれ目か。

普通芸術家と享受者の関係については、山本さんの言うとおりで、私じしんも同じなのだけれど、つまり、『気持ちはあらゆる人々対象だけど、でも現実として、専門家を相手にしているのは確か。』という。でも、山本さんも私も、「気持ち」だけでなく、やりかたそのものの設計として、あらゆる普通の人にも分かり得るようにつくっている、と思う。ただたんに可能性の問題、「気持ち」だけの問題であるならば、著しく専門性の高いものであっても普通の人が分かる可能性はそりゃある、いや、あるというか、なくもない、くらいだけど、そんな「気持ち」とか「気合い」のようなものでごまかすのは、おかしいわけで、誰にでも共通し普遍的だと思われるツールとして、山本さんはことばとそれに支えられた概念、私はことばと概念と身振りをつかう。繰り返しになるけれど、専門性・趣味性の高いものを、分かってくれる人がいるかもしれない、くらいの安直な気持ちでやっても、誰も分かってくれない。これは確か。いや、分かってくれない、というより、見た人の役に立たない。誰の役にも立たない。いや、役に立たないというより、誰も面白がれない。本人しか面白がれない。私はいつも自分のやることを考えるときに、自分自身が享受者の立場ならどうだろう、というのをものすごく考えるし、それもなにかの専門家としての自分ではなく、普通の人としての自分において。どんどんどんどん、感覚としては、普通の人になっていて、大学の頃なんかは電子音楽(というか電子音響?)が好きでそういうのが自分の専門だと思っていたけれど、それもまた狭い狭い範囲のものだと思ってからは、どんどん普通の人になっているし、そもそも普通の人だったのだろう。いろいろなものへの興味の深さとしては、まったくもって普通の人だと思う、私は。なので、自分自身がなにかやるときのやりかたの設計の基準としては、誰が見ても、行為としては意味が通じるもの。なので、日常にあるものの非日常的な使い方、というのもやらない。それがそれとして使われるように使う。置き場所を変える、っていうのはあるかもしれないが、それだけを前面にはしたくない。自己表現とか、自分の感情表現とか、自分の主義主張とか世界観とかの表現も、やらない。ただたんにこの世界で起こり得ることの一例というか、自分がやることは自分にとってすら特別なことではない。だから、他人にとっても特別なことではないと思う。当たり前のことが当たり前であることの確認にすぎなくて、だから「表現」とはとうてい言い難い。未満、ですらないような。まあ、いいか、こういうのは別に。自分で言ってもしょうがないし。これさえもたんなる自己主張にすぎない。あと、私が音楽のライブが嫌いな理由に、雰囲気への同調、共感の強要、があって、ある音楽家なり、あるジャンルなりの音楽を好きで集まった人々が、好き同士共感しあい、音楽を楽しむ、とかいうのが、ほんと嫌で、手拍子とか絶対にしたくない。なんでだろうなあ、こういうの、楽しいと思えないのよね。だいたい、我を忘れてみんなで楽しむ、っていう感覚がないのかもしれない。もちろん、ただたんに手拍子とかしなきゃいいだけなんだけれど、それはそういう音楽の文脈ではノリが悪いとされるわけで(真面目に聴いていても!)、まあそういうのに行かなきゃいいだけか。じっさい行かないけど。個人で音楽それ自体を楽しむ、というよりも、音楽を媒介に我を忘れみんなで楽しむ、というのが、どうやら一般的な音楽のライブのようなので、私は音楽のライブと、音楽というもの全般も嫌いだ。だからカラオケも大嫌いで、他人のヘタな歌を聞くのが嫌だとかいうより、みんなで歌って楽しもう!みたいな雰囲気に馴染めないから、嫌いなのだと思う。別に聞くぶんにはいい。どうせ素人のヘタな歌なんだから、適当に聞き流せばよい。でも、それ以上に、場の空気、楽しい空気に同調することが求められるのが、ほんと嫌だ。歌わないといけないのも嫌だ。自分が歌うことで、場の空気に同調することになるのだろうけれど。素人のヘタな歌だという共通認識があったとしても、人前で歌うのは嫌だな。恥ずかしいとかいうよりも、それが「楽しいことである」という意識を共有できないし、同じ理由から、飲み会も嫌いだ。気心の知れた人たちとご飯を食べるのは好きだけれど、ただたんに騒ぐための飲み会は、かなり頑張って同調しないといけないので、辛い。みんな、なんのために、カラオケで歌い、酒を飲んで騒ぐのだろう。なにが楽しいのだろう。解放感みたいなのがあるのだろうか。そんなにみんなふだん抑圧されているのだろうか。私はわりとふだんから楽しいので、その感じは分からない、ぜんぜん。ああ、分かった。「我を忘れる」のが怖いから嫌なのだ。そのまま死んでしまうような気がするし、一時的な忘我になにか意味があるのかというと分からないし。それはともかく、「我を忘れる」ことと、それを他人と共有すること、を強要するので、音楽のライブとカラオケと飲み会は嫌いだ。共感をベースにしたコミュニケーションとしての芸術なんて、私にはいっさい必要ない。明日は、神戸芸工大にて、建築家 乾久美子さんの講演会があるけれど、遠いよなと思ったら、そんなでもなく、片道37分。交通費は片道510円。こっちはけっこうあるな。もし、行くならば、「今行処」への投稿ができるな。初の。