仲正昌樹「今こそアーレントを読み直す」と、乾久美子「現代建築家コンセプト・シリーズ3 乾久美子−そっと建築をおいてみると」と、松原隆一郎「消費資本主義のゆくえ―コンビニから見た日本経済」の三冊を新幹線で読む用に持ってきていて、7/1の車内で主に前のふたつを読む。「今こそアーレントを読み直す」については、いま気になっていることと接点がいくつかありそうだ。「そっと建築をおいてみると」については、図面が少なすぎる気もする。写真も。文章はとても面白い。鶴見俊輔「限界芸術論」の最初におさめられている「芸術の発展」を読み終わる。さらに詳しく再読したい。やっぱり、山本握微さんのいう「普通芸術」と鶴見俊輔さんのいう「限界芸術」は近いところの方が多い気がする。宮沢賢治についてのくだりを読んで、そう思った。三宮のジュンク堂で立ち読みした、なんかのムックで、たぶんデザインだか建築だかのムックだったと思うけれど、フィリップ・スタルクが面白いことを去年くらいか、言ったらしいのを知って、ちょっとネットで調べてみる。ああ、あったあった。→http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2370831/2782336 『デザインの仕事に嫌気が差し、2年以内にリタイアする予定だと、27日付けの独週刊紙「ツァイト(Die Zeit)」のインタビューで明かした。』らしい。さらに面白いのが、『私がデザインしたもの全ては不必要だった。2年以内には確実にリタイアし、何か他のことをやりたい。まだそれが何かはわからないけど。自分を表現する別の手段を見つけたい。デザインとは、忌むべき表現形式だ』『今後デザイナーはいなくなるだろう。将来のデザイナーは、パーソナルコーチや、ジムのトレーナー、ダイエットコンサルタントになるんだよ』ということをコメントしていることで、たしか立ち読みしたムックには、デザインが自己表現の手段になっていることに嫌気がさした、というようなことが書いてあった気がするが、定かではない。スタルクのコメントの「デザイン」を「アート」に、「デザイナー」を「アーティスト」に変えても、意味は通じるし、事情は同じだろう。なんとなく、わざわざ「デザイナー」なる職能を目指すひとたちにとっては、「デザイン」で世界や社会をすこしづつ変えたりよくしたり考えたりしていこう、ということよりも、ただたんに職業としての「デザイナー」になりたいのであって、「デザイン」すること自体は目的でもなんでもなかったりする、のではないか、と勘ぐっているのだけれど、どうなのだろう。でなきゃあ、こんなにデザイナーやらクリエイターやらがいる理由が分からない。これはまあアートでもミュージックでも同じだと思うけど。「デザイン」なる行為をそれと知らずに行っていたら、いつのまにか「デザイナー」と呼ばれていた、というふうには、いまとなっては、ほとんど稀な事例だと思われる。エンツォ・マーリさんなんかはどうもそうらしいけど。もともとはアートをやっていたらしいが、いつのまにか、デザインに関わってしまっていたと。そういえば、私がむかしにちょっとだけいた商業デザインの世界では、「引き出しの多さ」は求められるが、「思考力」は求められない。よくある要望によくある仕方で答えるのが重要。こういうデザイン、というか、図案屋さん、意匠屋さんについて、学校の授業でいえば、図画工作というより日本史とか世界史とか理科とか。暗記ものというか。ひとによって違うとは思うけど、私にとってはこれらは暗記もので、人名とか出来事とか原子記号とかとにかく暗記しないといけないのがほんとに嫌だった。ただ憶えるだけじゃ面白くもなんともないし。好きなら苦もなく憶えられるものなんだろうけど。「〜風」のデザインスタイルとか細かいデザイン処理のスタイルとかレイアウトのスタイルとか、とにかくなにも考えず、スタイル・手法をたくさん憶えないといけないので、これは無理だと思ってやめた、というのはたぶんそうだと思う。でも、それ以外の部分、たとえば、仕事のやりかた、いろんな人と協力しながら仕事をしていくやりかた、などなどについて、ものすごく多くのことを学んだ。だから、とてもよかったと思う。技術はなんにも残ってないけど。というか、そもそも身に付いてないけど。たくさんやってくる仕事をかたっぱしから倒していくのは面白かった。なんだか分からない充実感というか、自分が必要とされている感じがあって、こういうのはワーカホリックというのかどうか。