ほぼ日刊イトイ新聞で連載されている、野田琺瑯野田善子さんのインタビューが面白い。そうそう、こういうのって手づくり、というか、けっこう人の手が入ってるんだよなー。田舎に帰って家業を手伝うときなど、陶磁器関係の人に会うことが多くて、白山陶器ってけっこう「プロダクト」っぽいイメージがあるけど、なんだかんだで手づくりなのだよなあと検品しながらつくづく思う。こう書くと白山陶器が実家みたいだけれど、ちがう。いちおう。野田善子さんはインタビューの最後で、職人が育っていくのがいちばん、と言っていたけれど、これはほんとにそうで、職人なしでは製品の品質が保てない。建築文化シナジーのサイトによると、西沢立衛さんの対談集が近いうちに出るらしい。『対話者は、原広司さん、伊東豊雄さん、藤本壮介さん、石上純也さん、妹島和世さん、長谷川祐子さんの6名。』とのこと。どっかの古本屋で買った東浩紀さんの「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」は昨日、読了。ちなみにカバーは中島英樹さんによるリニューアルが施される前のもの。その続編の「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」を読んでみるかなと思って梅田のブックファーストに行ってみたが、ない。紀伊国屋にも、ない。六甲のブックファーストにも、ない。佐々木敦さんの「ニッポンの思想」を立読みする。「『投瓶通信』理論」と「パフォーマンス」のあたり、興味深く読む。うーん、このへん、自分自身にとってもけっこう切実というか、もちろんどっちかだけでいいとは思わないけれど、「書く」なり「つくる」なりなんなり、それをやるにあたっての基本的な立場の設定について考えることは、どうしても必要になる。私としては、パフォーマンス=振る舞いを「投瓶」できないかなーとは思う。よくわからんけど。「まじめに書いて後は海に流すしかない」という姿勢では、どこか不十分にも思えるし、とはいえ、振る舞いだけが一人歩きするのも、どうかとは思う。微妙なところだ。あと、海に流すのはいいとして、どこから流すかも問題。海流の流れによっては、戻ってきちゃうかもしれないし、ゴミの溜まり場みたいなところに流れ着いちゃうかもしれない。海を汚してもしょうがないし。近くても、それなりにお役に立てそうなところに、流れ着いて欲しい。土曜日に枚方SEWING GALLERYに行った姉と妹のはなしによると、私にちょっと似たお兄さんが会場で受け付けというか接客というか、していたらしく、それはたぶん中島恵雄さんだ。私たちはふたりとも、東南アジア系の顔をしている。前にも書いたような気がするが、JR三宮の正面改札のあたりからタクシー乗り場みたいなのを通りつつミント神戸へ向かう途中、見知らぬおじさんからすれ違いざまに「フィリピン人みたいな顔しやがって!」と罵られたことがある。まあ、それはそうだけど、と思った。そして、その中島さんがやっているBOOKLOREのサイトを見てみた。→http://booklorebooks.net/ aboutのページのなかの中島さんによる紹介文がなんだかよかった。抜粋して引用。

 2002年より大阪枚方星ヶ丘で『SEWING GALLERY』というギャラリーを運営してきました。この場所は「誰でももの作りができる」というコンセプトのもと、芸術の訓練を受けていない人や、新しい表現の形を見つけたい人が自由に実践、実験できる場としてギャラリースペースを提供しています。活動も5年になり、多くの人がここを訪れ、様々な形で作品を発表してくれました。そんなギャラリー活動の中で多くの作家やここを訪れる人々と出会い、自己表現や芸術といったものが作家自身や自分達にとって、また世の中にとってどういった事に役立っているのかを常に考えてきました。まだその答えとなるような言葉をはっきりと見つけたわけではありませんが、自己表現がもたらす効果のようなものは、うっすらと見えるようになってきました。そして、そんな活動の中で得てきたことを外に示していく必要性も感じるようにもなりました。そこで自分達の意志を発信する場所として、出版社BOOKLOREを立ち上げることになりました。

私も細々と『自己表現や芸術といったものが作家自身や自分達にとって、また世の中にとってどういった事に役立っているのかを常に考えて』いるので、なんというか、知恵を借りたい。。東浩紀さんの「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」は、オタク系文化にぜんぜん詳しくない私でも、面白く読めた。いちおうエヴァンゲリオンは中学校のときにリアルタイムで見ていたし、部活があったので録画して見ていたらいつのまにか深夜枠に行ってしまった。二次創作やゲーム、フィギュアまでとなると、とんと縁がないけれど。どっちかというと、キャラに萌えるとかじゃなくて、普通に物語を追って見ていたような気がする。ひととおり読み終えて、第二章「データベース的動物」を再読しているけれど、二次創作の作者について、

八〇年代を代表するコミック作家やアニメ作家は何人でも挙げることができるが、九〇年代を代表する作家となるとちょっと困ってしまう、というのが、専門家にかぎらず、まずおおかたの読者の共通意見だろう。この特徴は普通には低迷の徴候として受け取られるのだろうが、しかし実際には、作家の名が挙がらない、というこの事実にこそ、九〇年代のオタク系文化の本質が示されているのだ。そこではもはや作家は神ではない。だから名も挙がらない。そのかわりに神々になったのは萌え要素である。

というふうに書いてあって、オタク系文化においては、作り手と受け手の幸福な共犯関係=萌え要素のデータベースの共有によって、「作家」という制度が必要とされなくなった(原作と二次創作がシミュラークルとして等価に消費される)、ということかと理解した。いとも簡単にあっけらかんと「作者の死」が遂行されているように見えるけれど、本当にそうなのかしら??受け手にとっては原作も二次創作も等価であるかもしれないけれど、作り手にとっての自作への愛着というものから「作家性」が甦ってきたりしないのだろうか??という疑いもありつつ読み進めていたら、その疑いに関係する記述が出てくる。ノベルゲームにおける二次創作と、従来の二次創作の違いを述べた箇所。

すでに説明したように、二次創作とは、原作の設定をデータベースにまで還元し、そこから任意に抽出された断片の組み合わせで作られたシミュラークルとして提示される作品である。しかし従来の二次創作では、そこで利用される「データベース」とは、あくまで消費者が自主的に再構成する抽象的なものにすぎず、その点に作者のオリジナリティは入り込む余地があった。たとえば『エヴァンゲリオン』の同人作家は、いくら原作を断片化して組み合わせるといっても、出版される同人誌のページそのものは自分の手で描かねばならなかったのであり、そこにはどうしても作家性が宿らざるをえなかったのである。

このあと、ノベルゲームにおける二次創作は、従来の二次創作のような「作者の手で描くこと」すら介入しないものになっている、というようなことが書かれているがここは割愛。ちなみに、どっちみち「再構成」という二次創作者の作為は入る。でないと、他人による原作そのものをそのまま自作と言い張って発表する、というわけのわからないことになる。先日、音楽もまたシミュラークルだよなあ、でもちょっと違う気もする、と書いたのは、このことで、データベースに蓄積された音楽的「萌え要素」を再構成するにあたり、どうしても「作者の手」が介入するわけで、データベースは参照しているものの、素材はオリジナル、というめんどくさいことになりがちで、商業デザインもそうかしら。「萌え」が基準ではないけれど、デザイン上の記号的な効果が分類・蓄積されているデータベースもしくは先行する成果があって、そこから要素を持ってきて再構成する。その際、まるごとコピーしてしまうと著作権にひっかかるので、素材はオリジナルで構成にもすこしアレンジを加えるが、ぜんたいとしての質はまるごとコピーする、という。ちらっと現場を知っている者からすれば、これは当たり前のことで、なにかあたらしいものをデザインするにあたり、その対象についてゼロから考えることから始めるのではなく、その対象についての先行するデザイン成果を眺める=データベースにアクセスすること、から始めるのが、わりあいふつうだった。また、著作権というのは「オリジナリティ」なるものの存在を無条件に前提にしているのだけれど、不思議なことにそれが転倒してしまっていて、「オリジナリティの不在」を「権利上」認めない、不可能にしてしまっている。繰り返すけれど、ぜんたいとしての質、目指される質は均質化された凡庸なものだが、要素の再現の仕方「のみ」=要素の再現者「のみ」が異なっている、という作品はたくさんある。これらは「権利上」まったく別の質を持つものだとされているけれど、どちらかというと、コピーでもシミュラークルでもなく、もちろんオリジナルでもないが、コピーとシミュラークルのあいだのもの、と呼ぶしかなくて、なんというか、厄介な代物でもある。商業デザインのはなしに戻ると、データベースへ新たな要素を登録する=管理者としてのデザイナーはごく少数で、社会で活躍するデザイナーのほとんどは単なる無名のデータベース使用者としてシミュラークルを生み出し続けるしかない。これがたぶん、商業デザイナー独特の諦観というか、社会の具体的で実用的な要請にシミュラークルをもって応えることしかできないのだ・・・、それが社会の求めていることなのだ・・・・という態度に繋がっているのだと思う。まあ実際にそうだと思うけど。だから、データベースの管理者=有名デザイナーになるべく意気揚揚とデザイン業界に参入する若者のほとんどは、すぐに挫折することになる。私なんかはデータベースの使用者にすらなれなかったけど。。なんかコツがいるのよね、たぶん。そして、「社会の具体的で実用的な要請にシミュラークルをもって応える」ことすら期待されていない芸術家はいったいどうしたらいいのか。そういえば、音楽のいちジャンル、テクノミュージックにおいてはちょっと事情が異なるかもしれなくて、ここにはさきほど引用したノベルゲームにおける二次創作と従来の二次創作のような違いがある。テクノを、「(クラブで)踊る」という機能=音楽的「萌え」要素に特化したデータベースを用いたシミュラークルの総体と捉えることもできなくもなくて、こう考えると、テクノは従来の「音楽」より「データベース−シミュラークル」的ではある。機能=「萌え」要素が前面に出てくるので、自然と作家性もうすくなる。サンプリングもある。ああ、そしたら、こういうのが、現代美術におけるシミュラークルの可能性、ということなのかしら。とはいえ、明らかに、美術においての近代的な「作家性」と齟齬を起こしそうな感じだけれども。なんとなく、芸術においてはシミュラークルは捉えられないというか、いわゆるカッコつきの「芸術」という入れ物には入らない気はする。コピーとシミュラークルのあいだのもの、のはなしに戻ると、これがなぜ発生するかというと、実際には「データベース−シミュラークル」的消費としての創作を行っているにもかかわらず、なおかつ近代的な意味での作家性=オリジナリティ=個性をも求める、ということをやっているからで、言い換えると、「萌え」要素のデータベースに自己を同一化し匿名化してしまうわけでもなく、かといってデータベースへの不正アクセスを試みるわけでもなく、オリジナリティという幻想にしがみついているだけ、というものすごく中途半端な態度が引き起こす事態だと思う。ここには「再構成の妙」というオリジナリティすら存在せず、「萌え」要素はおろか、それらの再構成のやりかた自体、さらにはコンセプトやメッセージですらデータベース化されて、すべてはフラットに選択の問題=趣味の問題になってしまう。それぞれの、消費としての創作を行う人々は、データベースに根ざした、オリジナリティという名の「個人的な趣味」を表現し、それによって、コミュニティの成員と趣味のやりとりをする。さっきも書いたように「メッセージ」やら「コンセプト」やらですらデータベース化され、選択と再構成の問題になっているので、どんな「コンセプト」を選び、どんな「メッセージ」を発するかさえ、個人の趣味の問題になる。つまり、コンセプトやメッセージはそのまま受け取られるのではなく、そういうコンセプト、そういうメッセージを選ぶ趣味の人なのだな、という受け取られ方をするし、そもそも作り手の側がそれを求めているフシがある。純粋にコンセプトやメッセージの持つ形式なりルールなり論理性を突き詰めれば、こんなかたちにはならんやろ・・という事例は多々あるし、なんらかの造形的なかたちに「表現」することで、余計ややこしくなっている事例は多々ある。「内容」ではなくて「振る舞い」(による自己イメージの表象)重視ということなのかもしれない。近代的な「作家性」にこだわるとろくな事がないが、作品がどのように人間に作用するかではなく、作家としての自己実現に賭けているひとが多いので、こういう事態はぜんぜん変わらないと思う。「データベース−シミュラークル」的な「消費としての創作」においては、「量」が「質」を生み出す、というポジティブな考え方も、すこし疑わしい。「量」はどこまでいっても「量」なのではなかろうか。あくまで欲求を満たすだけの。どうやろか。私はいつも、あくまでも受け手として考えているので、作り手に対しては批判的にならぜるをえないのだけれど、というか、ものすごく悪く言えば、という但し書きをつけないといけないのだけれど、このまま、作り手だけしか楽しくないというふうになってしまうと、すべての受け手が作り手になってしまって、誰も受け手がいなくなる。これはかなりやばい。なんというか、歯止めがきかなくなる。みんながみんな、薬物依存のように、欲求を満たすだけの創作を繰り返すようなことにならないともいえないし。産業としてはそれでいいのかもしれないけど。ひとまず、これから、多様性・多数性ってどんなんだ?ということと、公共的なゲームの土台ってどんなんだ?ということを、考えないといけないっぽい。この物理的身体を持つ「私」なるものはこの私以外にいない、というような次元のことを多様性と呼んだのでは、たぶんはなしにならないし、ローカルな趣味の集まりは公共的なゲームの土台にはなりえない。固定化したモノの雑多な集まりとしての多様性なんかじゃなくて、プロセスとしての多様性が生まれうる土台の整備が、必要なのかしら、どうなのかしら。うーむ、受け手の側からの作り手批判ちゅうても、非常に形式的というか、かたちだけのような気もするし、そのへんどうしたらいいやら。どうしたらいいやら、というまえに、おおつかみにざばっと批判することをやめればいいだけなのだけれど。個々の表現をひとつひとつ検討していくのはちょっとしんどかったりもするからなんともいえないけれど、全体的な状況と個々の表現っていうのはどこかでリンクしているもんなのか、そうでもなくて事後的に全体的な状況という一種のまぼろしが見えているような気になるだけなのか。ただたんに、それぞれの個々の表現が依存している歴史と枠組にいちいち入り込まないといけないのが面倒臭いというか。。いちいち入り込まなくても、こちらの読み次第で何かを得られる表現がある一方で、入り込んでくることが前提で入り込み方や楽しみ方・感じ方ですら暗に指定してあるような表現もある。最後にちょっとポジティブな文章の引用をしよう。こちらの側にぜんたいが振れてくれればわりあいベストだと思うのだけれどなー。TATTAKAさんの試みは、このことに関係あるような気がする。青木淳「原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ」の「そのすぐ裏にある空間」より。

 二〇〇七年十月二十七日から二〇〇八年一月二十日まで、東京都現代美術館で、「SPACE FOR YOUR FUTURE―アートとデザインの遺伝子を組み替える」展が開かれている。参加しているのは美術作家にとどまらず、建築、グラフィック、写真、ファッションなどの分野で、今、最も刺激的な仕事をしている人たちだ。
 訪れてみて楽しかったのは、どの人も、普段やっていることをそのままやっていることだった。「今回は、アートの展示だから、いつもとは違って、アートとしてやってみようかな」というような迎合がない。
<中略>
そういうアート外の作品が、エルネスト・ネトオラファー・エリアソンたちの「アート」の作品と平気に混ざって展示されている。
 もちろん、アートとデザインは、社会的成り立ちや媒体も違えば、プロセスもまるで違う。そして、それぞれの作家は、彼あるいは彼女が属する分野固有の歴史と枠組の中で活動している。にもかかわらず、会場にはちっとも違和感がない。たぶん、ひとつの分野がその分野固有の歴史と枠組との関係でつくることから少しずつ離れ、「どんなことを実現したいか?」というような、もっとおおもとのところからつくることを出発する方向に変わってきたからだと思う。アートの側がそう、デザインの側がそう。今何を感じ、それに対して自分はどうせざるを得ないと感じるか。それらクリエイティビティの根源にある切実さの、何らかの共通性の方が、ジャンルの違いよりも強くなっている。これはつくる立場にいるものにとって、とてもうれしいことだ。