KAVCのHさんに「プロフィール展」への協力をお願いしに行く。久しぶりなので長話。「プロフィール展」の発想には、Hさんをお手伝いさせていただいたときの経験も含まれている。「プロフィール/自己紹介」をください、っていうとき、その捉え方によって、敷居が高くなったり低くなったりする。ここがかなりむずかしい。今回、ちょっと敷居が高くなりやすそうな情報の見せ方をしてしまったかもしれない。。プロフィールを個人情報ととらえるかどうか、というのも関係あるかもしれない。知られたくないことは書かなければよいだけだし、「●●という人物による●●という自己紹介」ははたして個人情報なのかどうか。どっちかというと、実質的というか感覚的には、虚構、フィクションに近づいていくような気がする。だからこそ、「プロフィール展」内においては実名と仮名の区別がつかないし、見知らぬ人から仮名で虚構のプロフィールを提出されても検証のしようがないため、それは事実として取り扱わざるをえない。そもそもなによりも、出展者が一同に会する懇親会のようなものを開催しないため、現実の人物と展示されたプロフィールを一致させる手立てがいっさいない。これはよなさんと私とのあいだで意見が一致していて、いろんな人のプロフィールを展示するけれども、展示者同士の出会いを演出する、というようなことはいっさいやらないということ。狙いは、ふだん出会わないであろう人と人の出会いではなく、それぞれの人が持っているそれぞれの世界の一瞬の「すれ違い」の驚きにある。ふだん出会わないであろう人との出会いというのも面白いことだと思うけれど、それはなにも私たちがやらないといけないことでもない。なので、直接的な人と人とのコミュニケーションは目的ではない。交差点ですれ違うような見知らぬ「誰か」について、本人の自己紹介によって間接的にすこしだけの情報を知ることができたら、どういう感じがするだろうか。石川忠司衆生の倫理」に書いてあったことに、あと仲正昌樹「今こそアーレントを読み直す」にもあったような気がするが、といっても両方ともいま探ってみたがちょっと見つからない。どちらにもさらっと書いてあったということだけは憶えているけれど、「芸術は卓越を競うものである(あった??)」ということがあって、つまるところいかに自分がすごいかを見せつけあうものだ、ということなのだけれど、ここで言われているような卓越っていうのはもちろん内容がきちんと伴っている場合であって、内容で卓越を競うことで、その結果、芸術が充実していくのであれば、なんの問題もないのだろうけれど、いまの感じでいうなら、卓越それ自体を目的にしてしまうことがあるようにも思える。いや、芸術に限らず、なんでもかんでも自分のアイデンティティとかプライドをかけて、「いかにすごいと思われるか」競争をやっているのはなぜなのか。まえにも書いたけど、なんか知らんけど、ときたま、自分のプライドのためだけに仕事やらなんやらやっているように見える人がいる。内容とかそれが社会に与える影響とかにいっさい関係なく。ただ尊敬されたい、すごいと思われたい、ダメなやつと思われたくない、みたいなのが、なんだか分からない余裕のなさとしてあらわれる。すぐ言い訳するし。前の会社にもいたなあ。よい感じにおだてないといけないから面倒くさいのよね。自分のプライドとかアイデンティティのためにしか生きられないのかもしれない。そういえば、プライドとかでいえば、ブルータスだかなんだかの雑誌の建築の特集かなんかで、とあるゼネコン、竹中工務店だ、の設計部の人の紹介がちいさく載っていて、その人のコメントが、『「強い建築」の力がまだあると信じたい。有名になるためにやってます。』というもので、おお、すごいな・・というか、なんというか、そこまで言い切れるのもすごいとは思うけれど、たとえば、私が自分の家の設計を頼むのであれば、「有名になるためにやってます」と公言「したがる」ような人よりも、「使いたくなる空間とはなんだろう」と悶々と考えている西沢立衛さんのような人に頼みたい、やっぱり。といっても、実際はそんな有名有名とガツガツしているわけでもないのかもしれないけれど、雑誌の取材であえて「有名になるためにやっている」と言ってしまうくらいだから、本気なのだろう。有名にならないとできないこと、たとえば大規模なものやマスを相手にしたものとか、というのはたしかにあるので、ぜんぜんアリだと思うけれど、なぜ私がこういう意識に違和感を覚えるのかというと、別に有名無名問わず、それとは無関係にできること、やれることがあるだろうと思うからで、有名無名というのはあまり問題ではない。表現のキャパシティと有名無名はそんなに関係ない気がする。うーん、有名になりたい、という気持ち自体があまりよくわからん。。名前を売りたいだけなら、いろいろと効率のよいやりかたがありそうな気がするし。表現の普遍性とか一般性とか質とかをより高めたいというのは分かるし、それは自分でもそう思うけど、作者として有名になりたいというのはぜんぜん分からん。注目されたいだけなのか。KAVCのあとはヴィヴォヴァブックストアへ「プロフィール展」への協力をお願いしに行く。久しぶりなので店主さんと長話。いろいろと示唆のあるおはなしが聞けたのだけれど、とりわけ印象的なのは、モノやコトの選択とそれによって自分を飾ることは上手だけれど、モノやコトと自分自身がどのように豊かに付き合っていけるかという視点がいっさいない、というのがわりあい一般的なのではないか、ということ。応用力がないということなのか。。憧れへの同一化のための物まねだけは上手いというか。。いま東浩紀動物化するポストモダン」を読んでいるのだけれど、「シミュラークルとデータベース」っていうのは、デザインや音楽や美術にももちろん当てはまるような気がする。けど、ちょっと事情が違う気もするな。。音楽に関していえば、いってしまえば、ほとんどすべてが、データベース化された「萌え」要素の任意の組み合わせで生成するシミュラークルともいえる。ややこしいのは、それらすべてのシミュラークルが「われこそはオリジナルだ」と主張することだ。実質的にはオリジナルとコピーの区別がないのに、あたかもあるように振舞う。オリジナル曲だといいながら、どこかで聞いたような歌詞をどこかで聞いたようなメロディに乗せどこかで聞いたようなアレンジでどこかで聞いたような歌い方で歌う曲はたくさんある。または、サイン派萌え、DSP萌え、ギター萌え、ピアノ萌え、ドローン萌え、4つ打ち萌え、ロボ声萌え・・・・・・・・。組み合わせの仕方が「個性」。こういうのを聞いていて冷めるのは、あからさまにデータベースの存在を前提にしているのが見えるからで、つまり私はあまり「萌え」的消費を求めていないからなのだと思うけど、だから、結局のところ、「ああ、そういうのが好きなのね、へえー」以上の気持ちを起こさせない。他人の「好きな音楽」とかどうでもいいし。音楽話、あまり好きじゃないし。すぐ、これ聴いた?あれ聴いた?これ知ってる?あれ知ってる?とか、たんなる情報だけの会話になるし。最悪なのは、知識競争みたいな会話。いや、こんなつまらん会話は、音楽に限らず、美術でもあるし、ほかのジャンルでもあるな。そうだそうだ、山本握微さんの個展「運動展 -slip- No.53835-53899」(http://www.kiwamari.org/u/)が明日から始まります。明日は土曜日なので14時から20時まで。18時よりオープニングパーティ「運動展でうどんを食べる」。