いまケーブルテレビで、何チャンネルかはわからないけれど、ヒストリーチャンネルかもしれないけれど、処刑と拷問の歴史、というのがやっていて、それはいまはいいと思って、宇宙がどうとか、タイムマシンがどうとかいう番組をつけている。タイムマシンというかタイムスリップというか、時空間ごと、つまり世界の「設定」間の移動、についてのパラドクスにおじいちゃんのパラドクスというのがあるらしく、つまるところ、過去に戻って自分のおじいちゃんをおばあちゃんと出会うまえに殺したらその未来に生まれるであろう自分もいなくなり、そうすると過去に戻っておじいちゃんを殺す自分もいなくなるため、おじいちゃんは殺せない、というもの。でもこれも「並行宇宙」っていう考えで解消されるらしく、自分がもといた時空間と、(過去に戻って)おじいちゃんを殺す時空間は、別のものだ、ってことっぽい。つまり、殺したおじいちゃんは確かに自分のおじいちゃんだが、自分とは違う時空間に生きる別の自分のおじいちゃんだということになる。たしかにそうであるならば、現在の自分が消えることはないだろう。しかし、自分とは違う時空間に生きる別の自分は消えるだろう。そうなると消されるのを防ぐべく自分とは違う時空間に生きる別の自分が、現在の自分によるおじいちゃん殺害を阻止しようとするか、現在の自分を殺そうとするか、現在の自分のおじいちゃんを殺そうとするだろう。それぞれの並行宇宙に生きる「自分」間の殺し合いが発生してしまう。並行宇宙を認めるならば、自分が自分を殺すことも可能だ。というか、現在の自分が別の時空間に生きる自分のおじいちゃんを殺して、現在の自分が消えることがないのは、殺す自分と殺される自分のおじいちゃんが、別々の時空間にいるから、ということであるならば、それらの時空間は、過去−現在ー未来、という関係にない。ただたんに空間的に異なるというだけだ。自分がいまいる時空間と、移動した先の時空間を比較できるという前提を認める限りで、あくまで相対的に、時間的にも異なる、というだけだ。タイムマシンとかタイムスリップとかが暗黙に前提しているこのことが疑われることはないのだろうか。なぜ時空間が異なる世界を比較できるのだろうか。おかしくないか。並行世界があるかもしれない、というのはいいけれど、それが存在可能かどうかと、それらの並行世界同士が比較可能かどうかは、別の問題のような。比較するためにはそれらを見渡すことのできる、さらに上位の世界、メタ並行世界か、並行世界間の「あいだ」の時空間が必要になるけれど、そのへんはどうなのか。さらにいえば、上位のメタ並行世界と下位の並行世界のあいだの移動は可能なのか。そしてこの移動はなんと呼べばいいのか。なにスリップ??ということは、どっちにしても自分がいまいる時空間の「過去」や「未来」には行けない、つまり、タイムスリップという現象はありえない、あったとしてもそれは空間移動=スペーススリップというだけで時間移動=タイムスリップとは呼ばない、ってことにならないか。自分がいまいる時空間の「過去」や「未来」においては、おじいちゃんのパラドクスが生じるし、並行世界を認め、自分がいまいる時空間とは別の時空間=並行世界に行けたとしても、それは時間の移動というよりたんに空間の移動にすぎない。なんか、タイムスリップとかいうとき、スリップする主体=自分が、超越的な観察者というか、時空間の制約を受けない存在として仮定されている気がする。それこそ、メタ並行世界の住人だ。神さまでもいいけど。さらにいえば、メタ並行世界の住人でありながら、にもかかわらずある特定の下位並行世界の住人でもある、という。こういう状態は、メタ並行世界の時空間に、ある特定の下位並行世界の時空間が、含まれていないといけないのだけれど、そうなると両者の区別がつかない。たんに同じ時空間の違う座標、違う位置、ってことになる。だいたい、タイムスリップとかいうとき、時間の空間化に陥っているというか、空間のように時間を移動できると仮定しているフシがある。なまじ、空間化された時間がイメージできるからややこしいのか。映像の早送りとか巻き戻しとか。早送りと巻き戻しがなぜ可能かといえば、はじまりとおわりがあるからだ。つまり、ひとつの空間、ひとつのモノとして完結しているから。それに、早送り巻き戻しは時間の移動のように見えるけれど、物理的空間に存在するフィルムか、0と1で構成される抽象空間に存在するデータ、の再生位置が移動しているだけで、どっちかといえば空間の移動だ。だいたい、「どう」早送りして、「どう」巻き戻すかは、非可逆なので、映像の早送り巻き戻しは、実時間のなかに入れられて空間化した時間を操作しているだけだ。ああ、いやいや、「時空間の制約を受けない」ことを目指すときのひとつの仮説としてタイムスリップがあるわけだな。手っ取り早く「時空間の制約を受けない」ことを実現するには、とりあえず、死ぬことだよな。死ぬ=いまの時空間から消滅する、ということだから。その結果、ほかの時空間に移動するかどうかは確認できないけど。仮に並行世界を認めたとしても、メタ並行世界=超越的な視点を認めない限り、並行世界間の、つまり時空間のあいだの移動についての、確認可能性が生じない。確認可能性が生じないということは、決定不可能性も生じないということにならないか。つまり、確認できるかできないかではなく、できるかできないかの議論じたいが「ない」??なんか、ほんとどうでもいいことを考えてしまった気がする。実家になぜかハンモックがある。さいきん買ったらしい。母ちゃんの定額給付金で。ハンモックの話題になって、ハンモックいいね、と母ちゃんが言ったら、いつのまにか父ちゃんが買ってきていて、定額給付金で買ったことになっていたとのこと。ゆらゆらだが案外しっかり身体を支えてくれて、なかなかよい。あと、父ちゃんはさいきん鶴見俊輔さんにはまっているようで、「限界芸術論」が机のうえにあり、それは寛ちゃんの分、とのことで、私の分まで買っているようだ。「限界芸術論」、ちらっと読んでみたら面白い。こういう書物があることは知っていたけど、「限界」ということばの響きが、芸術の限界を押し広げる、というようなイメージを与えて、たんなる現代芸術論かと勘違いしていたため、ちらっとも読んでみたことはなかった。山本握微さんのいう「普通芸術」とけっこう近い気がする。巻末にある、四方田犬彦さんの解説によると、鶴見さんのいう「限界芸術」の「限界」とは、

英語でいうlimitedとかrestrictedではなく、marginalの意味である。隅っこに押しやられたもの。芸術か非芸術かなかなか識別がつかない境界にあって、誰の眼にも忘れさられたままになっているもの。

らしい。さらに巻末にある、四方田犬彦さんの解説「鶴見俊輔の身振り」より。

芸術にはおおまかにいって、三つの種類がある。純粋芸術と、大衆芸術と、限界芸術であると、この書物の著者はまず分類を示す。純粋芸術とは、いわゆる狭い意味での芸術であって、専門的な芸術家によってのみ作成され、専門的な享受者のみを対象としている。大衆芸術もまた専門的(というより、プロというべきか)の芸術家の手になるが、資本の論理が制作過程において大きな決定権をもち、たとえ俗悪だという非難を浴びようとも、大衆によって広く享受されることになる。
 もっともここまでは、いかなる文化理論家も首肯するところだろう。鶴見俊輔が独創的なのは、そこに第三の範疇として、非専門的芸術家によって作成され、同じく非専門的享受者によって受けとられる限界芸術を提唱したことである。

うーん、さっき、山本握微さんのいう「普通芸術」とけっこう近い気がすると書いたけれど、そんなに近くはない気もする。山本握微さんのいう「普通芸術」というのは、資本の論理がすべてを決定する社会における、純粋芸術家の生き方のモデルの提案だと思うから。その表現じたいは、純粋芸術に当たるだろう。いまの状況で気になるのは、純粋芸術家の生き方のスタイルも気にはなるけれど、それよりも、非専門的芸術家が専門的な享受者のみを対象にすることの矛盾。言い換えれば、専門的な芸術家=プロのやりかた(というより結果か)を模倣することで、それがそのまま専門的享受者もしくは大衆を対象にしていることになる、というような短絡。誰を対象にしているかは自分で決めるものではなく、自分の属する「制度」の決めることである。ある特定の専門的な芸術家=プロのやりかたを模倣することでその「制度」にも参入することになる、ということに妙に無頓着でありながらどこか意識的でもあるのが、不思議だ。。誰(もちろん自分もふくむ)に向かってなんのためにどういうことをどういうふうにやるか、をゼロから考えることをしなくても、なにかしらの既存の表現のスタイルを選択するだけで、それらぜんぶが決まっていく。これは「かたち」から入る、とかいうレベルのはなしではなくて、手段はおろか、目的ですら借り物である、という妙な状態。だから、「かたち」、手段からはいって自分の目的を発見する、なんてことにはどうやってもならない。すでに目的は発見されている。というか、手段じたいが目的である。グラフィックデザインをやりたい!それ以外にグラフィックデザインをやる理由なんてない!ロックをやりたい!それ以外にロックをやる理由なんてない!というような。こういう転倒はかなり興味深い。芸術行為を行う人間というより、芸術行為を行う機械というか。自分で自分の目的を入力する機械。こうなると、つまり、手段も目的も手に入っている、ということになると、あとは「自分でも」やってみるだけだ、ということになる。この「自分でも」というのがミソで、というかここだけにしか意味はない。借り物の手段と目的とそれらで構成される制度という狭い範囲のなかで、他人とのささやかな違いという狭い意味での個性を発揮する。それはほんとうに個性というのか。だいたい、いちいち発揮しないと存在しないものなのか、個性って。だから、表現機会提供サービスなんていう、直接的な、「個性」ビジネスが成立するんだな。これはわりと面白いことだ。あと、プロになる!っていうときの、勝てば官軍!的なニュアンスがじゃっかん気になる。それですべてが正当化されるわけではないんだろうし。いや、自分のやっていること、やりたいこと、でお金がもらえること自体はよいことなのだけれど、お金がもらえる=需要、市場がある、ということで、市場があるということはたいていの場合、生産から消費までの道筋は規格化されていて、そこで暮らそうとすればどうしてもその規格に沿わないといけない。うまく寄生できればよいのだろうけれど、やはりそんなに簡単ではなくて、基本的には市場で「売れる」ものしか相手にしないだろうし、でなければ「売れない」ことのリスクを本人に負わせて、かつ利益をも得ようとするだろう。そもそも、「売れる」=「必要とされている」という等号は成り立たないのであって、必要とされないものでもとにかく売らないと存続できなくなるほど市場・業界の規模が拡大しているっぽいし。このへんをスリムにするだけで、かなり変わるような気もする。「大衆芸術」の市場だけが異様に肥大して、「大衆芸術」の専門家が無数にいるうえに、「大衆芸術」の専門家を目指す非専門家も無数にいて、なぜみんなそこに群がるのか不思議でならない。