松原隆一郎「経済学の名著30」は昨日、読み終える。口笛文庫で手に入れた、同じ著者の「消費資本主義のゆくえ」にとりかかる。青木淳「原っぱと遊園地2―見えの行き来から生まれるリアリティ」も進行中。「妹島和世西沢立衛読本-2005」も進行中。写真と図面と対談。読みやすいし、建物をイメージしやすい。石川忠司衆生の倫理」はあとすこし。いま7章。8章で終わり。TORTOISE「BEACONS OF ANCESTORSHIP」の輸入盤がミント神戸タワレコにあったので買う。SND「Atavism」もそうだったけど、サンガツ「静かな生活」のなかのいくつかの曲もそうだ、なんだかひたすらとらえどころがない。なので興味をひかれる。誰かがブログで指摘していたけれど、ヴィヴラフォンの音が全体を通してほとんどない。クラムボンのセルフカバー集が出ていて2弾とのことだけれど、1弾は売ってなかったから、ほんとにあったっけ「LOVER ALBUM」じゃなくて?と思ったけど、調べてみたらあった。試聴してみると、わりあいギターがメインで鍵盤の音が少なかったように思う。さいごの3曲でシンセやら電子音がいきなり出てくる。いまは出前待ち。ビーフシチューとタンシチューがやってくるはず。19時半くらいに時々たのむ洋食屋さんの自由軒に電話したら、50分くらいかかると言われたが、待ちます、と答える。前に姉ちゃんが電話したときは2時間かかります、と言われたらしいが、そのときも2時間待った。本当は断ってほしかったのかもしれない。「東のエデン」のテレビの最終話をみる。よかった、いちおうテレビはテレビで完結した。続きは映画で!っていうのが、いちばんめんどくさい。映画は秋と年明けとふたつやるらしい。よう、できとるなあと思った。「ミチコとハッチン」も途中ダレたけど、最終話がたいへんよかった。さっぱりしていてよかったというか、生きていく、というか、ほっといても生きていってしまうことのすごさというか。おっ、出前がきた。結局1時間くらい待ったが、とにかくタンシチューがたのしみだ。どうでもいいことを書くことで、昨日、一昨日の文章を、過去に押し流す。昨日から寝なかったので、ご飯を食べ、ちょっと休憩していると、なんか眠い・・という段階を経ずにいきなり眠ってしまっていて起きて寝ていたことに気付く、というふうなので、お風呂に入ってさっさと寝よと思ったのだが、うっかり布団に横になったら、11時くらいから3時くらいまで寝てしまった。風呂に入ろうと思ったら姉ちゃんが入っていたので(姉ちゃんは朝5時くらいに家を出て会社に向かい夕方17時くらいに帰ってくる)、ちょびっと作業して風呂に入ってちょびっと散歩した。と思ったら、バートルビー店主からコメントが。お返事は、また後ほど。まだなんかあったかな。ああ、今日センター街を歩いていたら、いやその前にいまsuzukiskiの「utopia」を聴いていて、いつも思うけれど、これは大傑作。テクノとも言い切れず音響派というわけでもない、それらのすきま。たんに「スズキスキー」としかいいようがない。メロディのセンスも抜群だと思う。そして、今日センター街を歩いていたら、神戸の、「クロワッサンの店」というのがあって、あるのは知っていたし、小学校か中学校かぐらいのころ、家族で福岡の天神に行くと、あのへんのすこしごちゃごちゃしたところにある「クロワッサンの店」に行っていた記憶がある。そういえば近くに無印良品もあって、まだむかしのロゴ、「無印良品」と書かれた紙だか札だかを持った腕のロゴの頃で、ああ、そういえば、最初の自転車は無印良品のだったんだ。ブレーキがハンドルの右にしかついてなくて、つまりうしろブレーキがないのだけれど、なぜかというと、ペダルを後ろにまわすとうしろブレーキがかかる仕組みだから。よくこのチャリでドリフトというか、ガーッとこいでキュッと止まってザザーッと後輪をすべらせる遊びをやっていた。タイヤがすりへるけど。あと、どうでもいいけど、無印良品と私は同い年だ。ああ、そうそう、「クロワッサンの店」。いつもちらっと見つつも、入らなくて、いや入れなくて、どう見ても主婦をターゲットにした店だからなんだけど、今日またちらっと見てみて、外からみる限りでも「スタンダード」な生活雑貨が並んでいるのは分かるので、ふとD&DEPARTMENTとクロワッサンの店は似ているというか、同コンセプトでターゲットが違うだけなんじゃないかと思い、ながらも1回通り過ぎ、やはり行ってみようと思い直し店内へ。やっぱり、並んでいるものはかなりかぶっていて、月兎やらその他ホーローもろもろとか柳宗理のケトル・ボール・カトラリーなどなどのキッチン用品とか白山陶器とかあとは、おひつとか珍味もろもろとか。食器に関しては、うーんこれは私にはちょっと・・・というものもあれば、洋服なんかは完全に私の範疇ではない。ターゲットとされる年齢も性別も違うし。うーん、でもじっくり見ていると、同傾向のコンセプトでも、ターゲットが違う、というのがかなり大きい気がしてくる。ターゲット以外に、違うところがあるとすれば、D&DEPARTMENTの「60年代」「むやみにあたらしくつくらない(リサイクル・リノベーション)」というようなキーワードか。あと、クロワッサンの店にあって、D&DEPARTMENTにはないものは、作家性の強いもの、たとえば「誰々作のお茶碗」とか、そういうの。D&Dはあくまで「プロダクト」に焦点を合わせているようにみえる。やはりどうしても、「誰々作のお茶碗」とか、そういう「作家性」が全面に出てくると、「プロダクト」というより「作品」という捉え方になってきて、じっさい「作品」と呼ばれるのだけれど、そうなるとモノの利用価値以外に、「所有欲」とか「見せびらかし」とか「モノの選択で個性が表現される」とか、そういうややこしいことがいろいろでてくる。といっても、D&DEPARTMENTには「個人の」作家性の強いものはあまりないかもしれないけれど、いわゆる「ブランド」として作家性の強いモノはたくさんある。そういうモノを私たちが評価するとき、どうしてもモノ自体の使い勝手とか使う楽しさとかいうよりも、イメージとしてのブランド/作家性に振り回されたりしがちで、そのへんのことは、アノニマスなもの、プロダクト、にまつわるややこしいこと。そういえば、無印っていうのは、個々のプロダクトのデザイナーの名前を出さないというのがあるようで(といっても、けっこう出てるけど。ジャスパー・モリソン、深澤直人、コンスタンチン・グルチッチ、エンツォ・マーリ、森正洋・・・・)、作家(デザイナー)やブランドのイメージじゃなく、モノ自体の使い勝手や使う楽しさで評価され、それにしたがって淘汰(廃番)されていく。というのは、もちろん「無印」内でのはなしで、つまり無印というブランド、というのが大げさなら、無印というプラットフォームを受け入れたうえでのはなしで、もし無印(のブランドイメージ)が受け入れられない人にとっては、とにかくまるごと無印商品も受け入れられないだろうし。といっても、個々の商品がいかに匿名性の高いものであっても、全体としてはブランドになってしまうというのは、たぶん作家性やブランドにこだわる人にとってというだけで、無印とかブランドとかこだわらず、いろんなところから自分に必要なモノを自分なりにピックアップする、というのが、わりあい一般的な感性であるような気もする。いや、そんなに一般的ではないのかもしれないけど。あと、いくら、アノニマス、匿名、といったところで、商品であるかぎりは製造・販売元をはっきりさせないといけないわけで、それではどうしても匿名にはならず、ブランド化は避けられない。これは芸術とかでも同じで、商品である限りはブランド化(作家性、作家イメージ重視)は避けられない。ブックオフオンラインで梶井厚志「戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する」、アマルティア・セン「貧困の克服 アジア発展の鍵は何か」、田尻裕彦,石堂威,小巻哲,寺田真理子,馬場正尊 監修「この先の建築」の3点を合計ちょうど1500円で。石川忠司衆生の倫理」はさきほど、読了。さいごらへんも面白かった。神秘主義と禅と精神分析。倫理の条件をひたすら問う。