実家にいます。でも、結婚して家を出るわけでもないのに「実家」とはいかに?という疑問がうちの親父から寄せられているわけですが、他にどう呼ぶかも分からないので、こう呼びます。いつかも書いたけど、実家にかえるのは「帰る」で、実家から神戸にかえるのは「戻る」と書いています、いつも。区別するために。猫が走り回っている。アニマックスでは「キテレツ大百科」が始まった。昨日の「1500円払って見たパフォーマンスに1500円の価値がなかった」については、経済学でいう「流動性の罠」と絡めてはなしができるかもしれない。あともうひとつは、(知的?)サービスとしての芸術体験の値付けの妥当性も。芸術を売り買いする場合、モノのやりとりというよりも一種のサービスのやりとりのように捉えた方が分かりやすいような気もする。物理的なモノがある場合、たとえば絵画とか、にしても、購入者はそのモノを買うというよりも、その作品を独占的に鑑賞する権利を買うのではなかろうか。ある性質の鑑賞、つまり、芸術体験を買うと。でも芸術体験って、マッサージとか猫と触れあえるカフェとか病院とかみたいに分かりやすく効果がみえない、というか、その価値(生成)のかなりの部分を鑑賞者に依存している。でもこれは別に芸術体験に限ったことではなくて、マッサージにも猫と触れあえるカフェにも病院にもマクドナルドにも当てはまって、つまり「サービスを受ける技術」、言い換えれば「サービスする側への配慮」というのはやはりある。自動販売機とのあいだに「サービスを受ける技術」なんていらないけれど、生身の人間と対峙するサービスの場合、やはり「サービスを受ける技術」は必要だと思う。食べ物をオーダーするとき、オーダーしたあと「お願いします」って付け加えるとか、飲食店を出るとき「ごちそうさまでした」と言うとか、コンビニで商品を受け取るとき「ありがとう」と言うとか、そういうちょっとしたことだけど。美容室での美容師さんとの会話にちゃんと乗ってあげるとか。それで、サービスする側がサービスしやすくなれば、効率や品質が上がり結果的にこちらが得をすることになる。おそらく、普段の「サービスを受ける技術」への意識のありなしは、「芸術(作品)を受け取る技術」にも深く関わる。というか、効果が見えやすいかどうかの違いはあっても、本質としてはまったく同じものだからだ。いちおう断っておくとこれはモラルのはなしではなく個々の基本的な技術(教養?)のはなしで、突き詰めれば自分が得をするかどうかのはなし。芸術作品/体験については、作品/体験として固定されたモノ/コト以外の部分をどこまで補足するか、説明するか、という問題があるけれど、それは提供の側の問題で、それとは逆の受容の側の問題についてはどのくらい進んでいるのだろう。広義の芸術作品/体験を受け取る技術についての研究。そこには文学理論も含まれると思うけど、文学理論にそれが含まれるわけではない。文学理論や記号論も含むさらに広義の受容理論研究って存在するのだろうか。とりあえず、「ただ受け取ればよい」とか「素直に受け取ればよい」とか「自然に受け取ればよい」とかいうのは聞き飽きたし、まったくの無意味だ。その「ただ」とか「素直に」とか「自然に」ってのは、作者のレベルでの「ただ」・「素直に」・「自然に」であって、その作者が長年かかって辿り着いた「ただ」・「素直に」・「自然に」に受容者がいきなり辿り着くことなんて、ごくごく稀だ。受容者を信じる、っていっても、結果的に丸投げにしかならなかったりするし。。難しいところ。やはり個々にそれぞれ違う「ただ」・「素直に」・「自然に」を引き出すには、それなりの方法が要るのだろうか。とかいっても、大きなことはなにもできないので、ひとまず自分自身の「サービスを受ける技術」を高めていきたいと思います。私は、作者の側からのアプローチより受容者の側からのアプローチに可能性を感じます。作者は作品を「分かりやすく」するより「豊か」にする方に力を注いだ方がいい。逆にいえば、この問題は作者には解決不能だと現時点では判断しているということですが。ちなみに芸術体験を受け取る技術、というとき、それは作者から発せられたメッセージなり価値なりを「受け取る」技術ではなくて、芸術作品を人ごとではなく自分のこととして「再構成」する技術とでもいえばいいのだろうか。他人のことばを自分のことばに置き換えるという。たぶん、伝える/受け取るを単純なコミュニケーションとしてのみ理解すると、行き詰まる。このへんの整理が必要だなあ。。どうでもいいけど、「キテレツ大百科」の勉三さんとからくり武者の声が同じだ。