高三で進路を尋ねられて「旅人です」と答えた高校生はなんとなく大学生になりそのまま卒業しそのあいだ旅をすることはなくそれからも旅といえるほどの旅をすることはなく、印度にも西蔵にも行くことはなく、旅といえば海外旅行で海外旅行といえば小学校の時に小5くらいか、韓国に行ったくらいで、それも「少年少女の翼」とかそういう名前の県のなんかそういうプロジェクトというか助成金が出てるから安く行けるみたいなやつで行って、キムチが辛かったのと、焼肉を葉っぱで包んで食べたのと、ロッテワールドやったかそういう名前の遊園地でジェットコースターが怖くてみんなが乗っているあいだそのへんにあったゲーム機でゲームをしていたのと、たしかインベーダーみたいな感じのやつだった。いちおう旅つながりだと、青春18切符で12時間かけて帰省するのは楽しい。移動していること自体がまず楽しい。あと、知らない町を歩くのも楽しい。人口の大小と町の風景の感じはどこかでリンクしている。そういうふうにつくってしまうのだろうか。さいきん小説を読んでいなくて、いま読んでいるのは、佐々木健一「美学への招待」、柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」、小田中直樹「ライブ・経済学の歴史」の3本がメインで、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」を気が向いたら再開しようかな、というくらい。ドニ・ユイスマン「美学」は先日読み終えた。カント「判断力批判」は第1章「美の分析論」を読み終えてお休み中。マルクス資本論」は第一部「資本の生産過程」第一篇「商品と貨幣」第二章「交換過程」まで読んでお休み中。マルクスは地道に読み続けたい。ボードリヤール「物の体系 ―記号の消費」とバフチン「言語と文化の記号論マルクス主義と言語の哲学」も折りをみてそろそろ再開したい。小説を読むとしたら、なんだろう。いまうちにあるのでいえば、ロブ=グリエ「迷路のなかで」、フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」、ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」くらいで、あと小島信夫各務原・名古屋・国立」もあったな、未読のは。探ればもうすこしあるかも。理想としては、小説をつねにひとつは読みながら、他の分野のを読む、というかたちがよいのだけれど、小説って読み始めるまでがしんどいというか、読むという決心をするのが疲れるというか、そんなこんなで結局読み始められなかったりする。ドストエフスキーについて、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」と読んできたので、次は「罪と罰」を読もうかという気にもなる。Re-TATTAKAさんが「2009-01-09[戯言]美術の代用品(オルタナティブ)」(http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20090109)で書いていた

ポスト・アーティストは、おそらく自らの制作物を自ら発見し、自ら用意した場所から流通させ市場原理をもまた退けることなくそこに内在させるだろう。

という一節を読んで思い出したもうひとつは匿名アートユニット「IDEAL COPY」のことで、8年か9年くらいまえにまだ国立国際美術館万博記念公園にあったとき、常設、じゃないな、たぶんコレクション展だ、でお金に関する作品だったかあんまりはっきり覚えていないが、コンセプチャルな作品が展示してあって、面白いなと思いユニット名を記憶していて、でもそれっきりで、2004年、滋賀県立近代美術館での「コピーの時代」はうっかり知り逃しているけれど、ひさしぶりに思い出したのがよかったのか、口笛文庫の美術の棚で、1997年、東京都写真美術館での「Channel: Documents」の図録を発見。まっくろの表紙のはしっこに白ヌキで「IDEAL COPY Channel: Documents」と書かれているだけのシンプルな表紙と背表紙。書体はヘルベチカ、じゃないな。なんだろう、とにかく細い書体。背表紙も同様のデザインなのだけれど、口笛文庫の同じアートの棚にある藤本由紀夫さんの「美術館の遠足」の何回目かの図録のデザインと酷似。トータルで方向付けされたイメージがどこか藤本由紀夫さん関係の書籍のデザインに似ている。IDEAL COPYって京都をベースにしているらしいし、藤本由紀夫さんが関わっていてもおかしくないなと思っていたら、「IDEAL COPY」でググって出てくる2番目のページ(1番目はなんかよく分からんCD屋?のページ)に(http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/law/071115_01.html)、影山幸一さんという方による「IDEAL COPY」インタビューがあり、設立者のM氏と共に、『大阪から来てくれたもう一人のコアメンバー』で『個人名でも音をテーマに活動して』いて『デュシャンピアンとして知られている』F氏なる人物が。『ICは作品を作っておくことはせず、制作オファーが持ち込まれてから作る注文制作体制で』あるらしく、『2004年滋賀県立近代美術館で開催されたグループ展「コピーの時代」に出展以後、ICにはオファーがない』だけで、解散したり意図的に沈黙しているわけではないらしい。あとこのまえ文章を引用させてもらった(http://d.hatena.ne.jp/k11/20081204)熊倉敬聡さんも「IDEAL COPY」の活動に協力したり、「IDEAL COPY」についての論文を書いている、らしい。先週の土曜日はぐっさんと連れ立ってサントリーミュージアム。「開館15周年 特別企画展 純粋なる形象 ディーター・ラムスの時代 機能主義デザイン再考」。とりあえず、SK5とSK55というラジオ・レコードプレーヤーのボタンのうち「UKW」というボタンだけ押してあったのが気になる。図録の写真でも押してある。他のプレイヤーは押してないのに。なんか意味あるのか?やっぱり、デザインされたモノ自体をみるのも楽しいけれど、それがどのような歴史的背景でなされたのか、というのを知るのも楽しい。なので、会場にいた時間の三分の1は5階展望ギャラリーに設置してあった液晶テレビに映っている、ディーター・ラムスとブラウンについて様々な人が語るドキュメンタリーを見ていた。途中からはぐっさんとはぐれて、いつ終わるとも知れぬドキュメンタリーをぐっさんを待たすのもなんなので途中で切り上げて、4階の展示室に向かい照明を落としたブラウン関係の印刷物(カタログ、ポスター、ディスプレイ、どれも秀逸)を展示したスペースというか通路に至ったあたりで、脱出しました、とのメール。4階ではブラウンがオーディオ機器をつくっていることとその時代との関連もふまえてジャズを流していますとのこと。たしかにジャズがうっすら流れていた。4階はディーター・ラムスのデザインしたものだけでなく他の人がデザインしたブラウン製品がいろいろ。最後のあたりに、ブラウンならびにディーター・ラムスの思想を継承するデザインとして、ジャスパー・モリソンや深澤直人APPLEの製品などが展示されている。展示をみたあと、ぐっさんと話しているときに思ったのは、というか、そのとき思ったことを再度編集しなおしていま書いているわけだけれども、機能主義デザイン(んん?機能を全く度外視するデザインというのものが有り得るのか?「機能主義」とあえて名指されなければならないのか?うーん、でもそうあえて名指さなければならない時代があったのだろう)というものがデザインという行為(とその結果生じるモノ)の根拠・規範を「機能」に据え、「機能」を適切に表現したものが美しい、というとき、それは数学者における数式への態度にどこか似ているような。答えが問題なのではなくて、それをどう解くか、どうメディア(数式)に落とし込むかが問題。「機能」っていうとき、いわれているのは機能それ自体ではなくて、「道具と人間の関わりあい」のことで、行為をモノとして表現したものでもある。ん、なんか脱線しつつある。ぐっさんと深澤直人さんについてはなしているときに思ったのは、機能主義デザインが、人間と道具(製品)との「身体的」な関わりあいの、スマートで美しい形態を追求していたのに対して、深澤直人さんは、人間と道具(製品)との「身体的」な関わりあいと「想像的」な関わりあいを二重に追求している、ということ。たとえば、無印良品で製品化された壁掛けCDプレイヤー。換気扇の形態(=機能でもある)が、(CDと換気扇の)「回転」を軸にした類推によってCDプレイヤーの形態(=機能でもある)に繋げられる。ヒモ=電源コードを下に引くと、剥き出しになったCDが回転し、音楽が流れ出す。「換気扇イメージ」と「音がでること」が繋がると、あたかも音の風(音波?)がCDプレイヤーから発生しているような気にもなる。それに、換気、すなわち空気を換えること、と、音楽によって空気=雰囲気を変えることの繋がりも思い起こさせる。そういうふうな機能と人間の「身体的繋がり」だけじゃない「想像(イメージ)的繋がり」への志向が深澤直人さんのデザインには見られる。もちろんそういう「想像的繋がり」だけで実用性がないわけではなくて、この製品が提案している実用性は、音楽を、重厚なサウンドシステムで聴く特別なものではなく、簡単にon/offできるBGMとして生活に溶け込ませる、ということ。この製品には「ランダム機能」も「リピート機能」もなく、製品上部に「前の曲」・「次の曲」ボタンとボリュームスイッチがあるだけ。リモコンなんてもちろんない。「リピート機能」がないところをみるとどっちかというと、「キャンドル」とか「お香」に近い位置付けでつくっているのかもしれない。キャンドルの火がある程度の時間が経てば消えるように、CDに入っている音楽もある程度の時間が経てば終わる。また聴きたければヒモを引っ張ればよいと。