5日前の5月6日にやってきたトラックの荷台の入り口というか、積載容量のところに2000kgと書いてあって、前回3トントラックと書いたけれど、2トントラックだった。帰ってきて丸ビルのタワレコRicardo Villalobos「Vasco」を買い、ヒルトンプラザかなんかのとにかくヒルトンがらみのビルの6、7階のジュンク堂青木淳「原っぱと遊園地」を買い、さっきは口笛文庫ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」を1000円、富永譲「ル・コルビュジエ 幾何学と人間の尺度」を800円。「オルタナティブ・モダン――建築の自由をひらくもの」(http://www.tnprobe.com/book/list13.html)は0巻「建築の現在/オルタナティブ・モダンとは」、1巻「伊東豊雄 生成するプロセスとしての建築」、2巻「青木淳 そもそも多様である、そもそも装飾である」を読み終える。アルゴリズムにたいする姿勢が、伊東さんと青木さんとでまるで違うのが面白い。伊東さんはアルゴリズムによる生成プロセス(または、他の人とのコラボレーション)に人間の意図を超えたものを期待していて、青木さんはアルゴリズムでは人間の意図を超えられないとしている。http://d.hatena.ne.jp/k11/20081230とか、まえにも書いたような気もするけれど、アルゴリズム=ルールで人間の意図を越えられる、っていうのは、ちょっと現実的でないというか、「意図」っていう概念を作者の側だけで考えてしまっている。たとえば、なんらかの立体物について、あるアルゴリズムに基づいてなんらかのフォルムが得られたとする。アルゴリズムそれ自体は作者の美学や美的センスとは別の次元に属しているので、作者の意図や作為と、ある立体物のフォルムは切り離されているようにみえる、すくなくとも作者の側からは。しかし作者以外の人間がその立体物をみる場合、どうだろう。結果=フォルムのプロセス=アルゴリズムを知らない、作者以外の人間は、そのフォルムが「作者の意図」の結果であろうことを前提にみるであろうし、それよりもなによりも、そもそも、結果からプロセス=アルゴリズムを想像することはできても、結果だけではプロセス=アルゴリズムをちょくせつ体験することは不可能だし、事後的な、ただの説明としてのプロセスにリアリティなんかまったくない。そして、体験することのできるプロセスは、おそらく、すでに結果である。いや、なんというか、アルゴリズムでも他人の介入でもなんでもいいけれど、「自分でも想像していなかったものができた!」という作者サイドのうれしさと、その結果できたもの/ことをみる鑑賞者サイドのうれしさは、そもそも無関係なんじゃないか、ということか。作者の意図を超えたもの=作者にとって見知らぬもの、ということなのだけれど、「見知らぬもの」ということでいえば、作者の意図を超えていようがいまいが、誰かのつくったものをみる鑑賞者にとっては、どっちにしろ、誰かのつくったもの=「見知らぬもの」なので、意図を超えているかどうかはあまり問題ではないし、そもそも自我とか意図とかを「超えよう」と意図すること自体が、傲慢というか、おこがましい気がしなくもないし、循環しているような気もするし、意図を超えることと制作物の質とのあいだにどのくらいの相関関係があるのかも、実のところ、よく分からない。鑑賞者にとっては、誰かがつくったものは、すべて「見知らぬもの」なのであって、その事実からスタートした方がわかりやすいような気はする。とはいえ、読んでいて面白かったのは、1巻の伊東さんの講演と質疑応答。ふわーといろんな条件やルールや他人の意図やなんやかやにうまく流されながら、建築(というより環境?)を設計しているような感じがした。というか、そういうふうにやりたい、ということを伊東さんが言っていたのかもしれない。実際にそうだというよりも。帰りの電車のなかで、岩田規久男「経済学を学ぶ」を読む。株式とか。配当と株の売り買いの利益。「クルーグマン教授の経済入門」がちくま学芸文庫で出ているけれど、これは面白いのだろうかどうだろうか。ここ2週間くらい、テレビもネットもほとんど見ない状態で、なんというか「目の前のこと」に集中できてよいかもしれないと思う。ネットはメールチェックだけでいいし、この日記も書かなければ書かないで問題ないし、書いたけれど書き終わってない日記というか文章もいくつかあるし、そういうふうでいいのかもしれない。書くために書くのはあまり意味がない。書くために書くというか、日記をアップロードするためになにかしらの内容の日記を書く、というのはあまり意味がないかもしれない。なんというか、ネットやテレビをみていると、ときどき、自分とまったく関わりのない出来事にムリヤリ関わりをもたされているような気になるので、実際にそうなのだけれど、そこをカットするだけでずいぶん違うかもしれない。どこかのだれかがなにをしているのかなんてどうでもいいし。でもここもどこかのだれかにとっては「どこかのだれかはなにをかんがえているのか」であるので、あまり人のことはいえない。陶器市っていうものはエンターテインメント、娯楽としての買い物、という側面が強いのだけれど、というか、それしかないのかもしれないけれど、もうそんな買い物の仕方はしなくてもよいのではないかとちょびっと思う。自分に必要なものを「自分の必要に応えられるかどうか」を見極めつつ買い物するのがよいのではないかとちょびっと思う。「買う」ことはストレス解消になるとよくいうけれど、他のなにかでストレスを解消したらよろしい。とは思うものの、そうとうむずかしい。ストレス解消としての、娯楽としての、「買い物」っていったいなんなのだろう。社会学とかの本で、こういうテーマのがありそうな気はするが、どうやって探したらいいのかはよく分からない。ああ、でも、今日の昼間に買ったジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」がそうなのかもしれない。