数日前、姉ちゃんがダニが出た!と言っていて、2、3日前から私もちょくちょく何者かに刺されていて、主に右足で、次は右手、最初は左足の親指。ほんとにダニかどうかはよく分からなくて、刺された感じからすると、ノミではないけれど、蚊のような気もする、というくらい。しかし、昨日の寝るまえに何箇所か刺されて、そのときの感じとしては、蚊が飛んでいた気配はなかった。なので、なにに刺されているのか解明するべく、とりあえずダニ刺されの特徴などを調べていると、南京虫というやつもいるらしく、これはなんか高校のときに読んだ藤原新也さんの「印度放浪」かなんかで書いてあったような。「全東洋街道」やったかな。でも南京虫はふつうにしていれば発生しないっぽいので、やはり有力候補はノミか。猫くるし。かゆい。19時半くらいから、合計5人の方々と、合計3時間ほど電話する。1日にこんなにたくさんの人と電話するのは、初めてのことで、なんだか忙しい気になるが、そうでもないだろう。6月6日の神谷さん主催のイベントの件は、紆余曲折あって(おもに自分のなかで)、急遽、3人の猛者に来てもらえることになり、たぶん大丈夫な感じだが、やりかたをすこし詰めないとやりにくいかもしれない。みつ君からもらったルールのアイデアがわりと重要な位置を占めていて、次は実際にこれを運用する際の落とし込みが必要になる。ルールとやりかたの調整というか。これは青木淳さんが「原っぱと遊園地 2」の「個別解としてのディテール」で書いていたようなこととも近くて、最初のルールでは決められないことややりにくかったりすることが必ず出てくるので、それを含む高次のルールを探していく、という。なるべく、ネットで知った他人のもろもろや書いていることを読みはしても、積極的に関わることを少なくするというか、いちいち無理に会話に入るようなことは疲れるのでもうやめようと思っていて、でも『音楽は音楽だといえば音楽になるからずるい、美術を美術だというのとは勝手が違う、と言われ』た河野さん。→http://d.hatena.ne.jp/i_ma_wav/20090525/p1 どう勝手が違うのか、これだけでは分からないが、おそらくは、なにかを美術と呼ぶときの手続きのややこしさに比べれば、なにかを音楽と呼ぶときの手続きは簡単すぎるよ!ということだと思う。まあたしかにそうだけれど、程度の差こそあれ同じことのように思えなくもない。コンサート(という文脈)で行われることはすべて音楽なのか?と問うのは、ギャラリーのホワイトキューブ(という文脈)で行われることはすべて美術なのか?という問いと同じだし。いや、でも「程度の差」がけっこう大きいのかもしれない。それよりも、そもそもなんで「なにかを〜と呼ぶときの手続き」に関わらないといけないのかが分からない。関わらないとなにもできないのかどうか。なにをするにもそういう「手続き」が支配するおおきな世界に入らないといけないのかどうか。会社で販促企画のために書く企画書と、美術コンペのために書く企画書は、はたして違うものなのかどうか。と、だいぶ前に書いてテキストファイルのなかに放置していて、すこしして、『音楽は音楽だといえば音楽になるからずるい、美術を美術だというのとは勝手が違う』ということばの真意として、『「「音楽」はなんであれ純粋性が仮構できるが「美術」はその定義から考えなければならないところが難しい」という意味と、ある種の音楽の透明性に対する嫉妬』ということばが、Re-TATTAKAさんよりあったようで(http://d.hatena.ne.jp/i_ma_wav/20090525#c1243340025)、それはたしかにそうだと思いました。純粋性の仮構、ある種の音楽の透明性、っていうのは、おそらく、体験の直接性についてのことばだと思うけれど、言い換えると、どんなコンセプト(概念)でつくられた音であろうと、なんらかのコンセプト(概念)を音に変換したものであろうと、それが音という振動であるかぎり、コンセプト(概念)抜きで、音、体験として聴けてしまう、ということだと思うけれど、そういう図式だけみれば、美術にも当てはまってしまうような。どんな美術でも、単純に「見た目」としても見れてしまうわけで、見た目だけで見るな!っていうのは、狭い意味での、大文字のというか、歴史や制度としての「美術」、もしくは美術についての美術、においてのルール・遊び方っていうだけで、そのルール・遊び方が一般に認知はされていても、それに沿って遊ぶ人はごく一部である気はします。そう思うと、音楽と美術はちょうど反転しているというか、そんな感じがします。音楽−感性、美術−理性、というような。音楽−感性、現代美術−理性、といった方が正確かもしれません、あくまで一般的なイメージをイメージしてみただけですけれど。いや、でも、Re-TATTAKAさんのおっしゃるとおり、音楽それ自体が根拠の音楽、っていうものは、おそらく可能ですが(演奏者−観客の共犯関係として。というか、ほとんどの「音楽」がそうですが、たぶん)、美術それ自体が根拠の美術、っていうものは、ふつうにしてれば無理な気がしてきました。共犯関係が成り立たないか、成り立ちにくい。音楽には音っていう軸があるけれど、美術にはそういう中心の軸になる媒体がない。というか、媒体はいっぱいあるけど、中心がない。でも、そういう意味では、美術の方が救いがあるように思えて、なぜなら、共犯関係に安住し続けることが音楽ほどには容易ではないからです。もちろん、美術にも、同語反復的な作品を同語反復的に受け取るような共犯関係がある、とは思います。そう考えると、音楽も美術もあまり変わりはないかもしれませんし、そういう共犯関係が必ずしも悪いわけではないですし、というのも、そこに安住するのは、美術に興味があるんじゃなくて、人間同士のコミュニケーションに興味があったり、同語反復=フィードバックによる自己イメージの安定に興味があるからで、ここでは美術は目的ではなく手段になっているわけですが、それはそれで社会の需要に答えているというか、有用でもあるということなので、いいのかもなあと思います。結局は私も似たようなものです、たぶん。「なにかやる」のも、遊びのようにそれ自体が目的というより、その結果「なにが」「どう」変わる、ということを考える手段のようにも思えてきます。遊びといえば遊びでもあります。あと、サウンドアートがどうこうっていうことでいえば、美術のフリをした音楽がサウンドアートだと思いますが、どちらかといえば、音楽のフリをした美術の方がやりがいがあるような気もします。といいつつも、そういうふうにすぱっとわりきれるというか、ふたつの対立で成り立っているものには、なんだか警戒してしまいます。六甲のブックファーストにてブルーマーク菊地敦己さんの作品集「PLAY」を立読み。菊地さんにはずっと注目していて、「家紋帳」のあたりからだったか、いやPepe California「LLAMA」のジャケあたりからだったか、服部一成さんにも通じるところがあるというか、細かいことを言うほどには菊地さんにかついて考えていないので、なにもいえない。どこかのなにかの対談では、服部さんに、僕のやりたいことを僕より先にやっている!というふうなことを言われていたらしい。でも、ぜんぜん違うっちゃあ違う気もする。菊地さん、彫刻科卒なんだ。へえー。ちらっと読むかぎりインタビューも面白そう。あと、中学校の授業中にノートの上にぽとっと1ミリくらいの小さい黒いものが落ちてきたので、なにかと思ったらノミだった。たぶん髪の毛か制服かに潜んでいたのだろう。そのときはうちの屋根裏で見知らぬ猫が子供を産んで、ノミが大発生していた。