とあるプロジェクトのため、とある町のとある長屋みたいなところの軒先で録音。テープレコーダーで5分間。玄関の前の植木鉢を置く台みたいなの下にテープレコーダーを置くけれども、他人のおうちでもあるし、スーパーの行き帰りのみなさまがたの往来があるので、人目をはばかる。置いて、しばらくそのへんをうろうろする。終わったかな、というところで戻っていると、遠目におじさんがテープレコーダーを持っているのが見える。まずい!発見された!不審がられる!ということで、角を曲がって行ったおじさんの後を追うと、道端に積まれたなんかの台みたいなのにテープレコーダーを置こうとしているところ。話し掛けると、誰かの落し物だと思ったらしく、どこかに吊っておこうかと思ったけれど、それだと盗られるかもしれんし、落ちていたおうちも留守だし。ということで、不審物を置いた不審者ではなく、落し物をした人として扱ってもらうが、万が一誰かにテープレコーダーを発見された際に使おうと思っていた言い訳、むかしこのへんに住んでいて、この辺の音を録音している、を伝えるが、これはこれで意味が分からない。なぜ「むかしこのへんに住んでいて」と「この辺の音を録音する」が繋がるのか。そもそも住んでいなかったし。京都のアンデパンダンのまえに着いた時点で頭が痛くなっていて、それは人混みのせいなのか、なんなのか。人混みを歩き回るとたまに頭痛になる。河原町駅に着いたのが、18時くらいで、イベントは19時からなので、とりあえずオーパタワレコとバルのジュンク堂とメディアショップとメディアショップの横にインテリアショップへ。メディアショップの横のインテリアショップには、アレッシィ社製のジャスパー・モリソンデザインのマグカップティーカップ/ソーサーが。むかしのやつなのかと思っていたら、どうやら2008年のやつ。http://www.alessi.com/en/2/4134/table-tea-and-coffee-sets/ajm2889-platebowlcup-mug ローゼンタールでやっていたマグカップをさらにシンプルにしたというか取っ手をシンプルに細くした感じか。なんとなく、取っ手がひ弱そうというか、ボディ(というのかどうか)と取っ手のバランスが気になる。ボディ(というのかどうか)のボリュームと取っ手の細さが釣り合わないような。写真でみると真横から撮ってあるからそのへんは分からない。同じようなマグだとやはりプラマイゼロのマグの方が安定感があるような。すこし重いけど。でもマグカップマニアとしては、買っておきたいところだけれど、とりあえずやめた。1500円くらいだからぜんぜん高くないんだけど。アンデパンダンサムライジャズクインテットのライブをみる。セカンドアルバムが明日出るらしい。http://www.faderbyheadz.com/release/headz132.html SJQはライブバンドだと思うので、ライブをみた方がよい。アサダ君以外は基本的にみんなひとり二役で、よなさんはトロンボーンとコンピュータ、魚住さんはキーボードとコンピュータ、大谷君はベース(いつのまにかウッドベースになっていた!)とサンプラーエフェクター、中垣内さんはギターとサンプラー。去年か一昨年か、ココルームでみたのと同じ編成で、とにかくひたすらみんなで断片断片断片断片断片でぜんたいをつくる。誰かがメロディを担当してあとはバッキングとか、打ち込みをベースにいろいろみんなで乗せていく、とかいうようなやりかたが意識して避けられているので、そういう単調さには陥らない。そのぶん、個々のメンバーの出す音にそんなに個性があるわけではないけれど、それは裏をかえせばどれが誰の出している音か分からないほど混じってしまっているということで、そういう意味で、個々の演奏じゃなくて、ぜんたいとしての音楽が、ぶわーっと生まれていく。植物の芽が出てだんだん森になっていく、というような複雑さがある。レゴブロックをみんなでひたすら組み続けて、無意味だけれどとても複雑な立体をつくっているかのよう。「ブロック(断片)」というルールをひたすらやみくもにオーバードライブすることで、自然の複雑さに近づいていくというか。ひたすら断片、ということでいえば、http://d.hatena.ne.jp/k11/20090331に書いたイタリアのsinistriというバンドを思い出すけれど、こちらはゆるいテンポでまったりしているのに比べSJQは躁的というか速いし情報量も多い。前者はまったりしているが故に「断片」という手法に飽きないで聞けるけど、SJQはとにかく情報を詰め込んでいくので「断片」という手法もまた飽和していくような気がするが、そのギリギリを狙っているようでもある。まったりした断片はそんなにカットアップの騒々しさを感じないから飽きないのだけれど、躁的な断片はカットアップの騒々しさがどうしても前面に出てきて鬱陶しくなりがちで、でも不思議とSJQの場合はそのへんがあまりない。アサダ君のドラムが効いているような気がする。このまえのマンフレッドコンサートにて知り合った備後さんとおはなし。即興演奏をするときに、演奏したい!よりも聴きたい!の方がつよい、というおはなしが面白い。ただ聴きたいだけで、たまたま自分が音を出す立場にいるだけ、という。これは、自分の出す音を聴きたい!とは、似ても似つかないまったく違う態度で、自分の出す音を自分で出していないかのように聴く、ということなのか。むかし大友良英さんが同じようなことを言っていたような気もするが、備後さんから聞いたことの方が妙に説得力があった。河野さんもこういう感じなのか。どうなのかしら。私もすくなくとも、演奏したい!っていうのは、ほとんどない。演奏・パフォーマンスの遂行それじたいはぜんぜん楽しくないが、見せるためにやらざるをえない。それが媒体だから。そしてその媒体じたいも面白くなければいやだ。コンセプトを伝えるためになんらかのメディアを使うというのではなくて、コンセプトとメディアが対等な関係で、お互いに邪魔しあったり協力しあったり、してほしい。これは建築でいう、構造と装飾の関係と同じかもしれない。構造だけ、装飾だけ、というのもいやだが、構造の装飾化、装飾の構造化もいやだ、というのは青木淳さん。構造と装飾が一致していても、構造の装飾化ではないバランスがある、というのは青木淳さん。これはなんというか、よくわかる。