昨日は中津で神谷さんに6月6日のイベントのフライヤーをもらう。ヴィーコードのかたの髪が短くなっていた。そしてよいチャリに乗っていた。さいきん川口君もチャリに凝っているらしい。行きの阪急神戸線梅田行き普通で、佐々木正人アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか」を読み終わる。第5章「運動のオリジナル」より。

ブルート・ファクツとは生きものに、この世界に出会う前にあることである。生きものがこの世界でしか運動を開始しないことを考えると、ぼくらがありのままのブルート・ファクツに出会うことは困難である。本能といってしまうと、何かがその後の成長を決定しているというような含みがつきまとう。この環境で生まれたその時に生きものがすることはただのブルート・ファクツ。つまりはじまりの運動。そこから発達がはじまる。

 ブルート・ファクツを強調することはいわゆる生得論ではない。ブルート・ファクツは変化の「たね」である。それは多様性の「たね」であって、将来に起こることを予期も決定もしていない。「はじまり」にあることと、それがその後に「まわり」と出会って起こる変化の原因が「遺伝か環境(経験)か」と議論することは絶対に区切ることのできない水と水の流れのようなことに、あたかもちゃんとした境界が存在しているかのごとくする議論である。<中略>実際に生きものに見ることができるのは「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」するということだけである。細胞からぼくらのつくる文明まで、発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも、それ以下のこともない。

アフォーダンス理論って、過度にありがたがられたり、過度に胡散臭がられたり、なかなかたいへんそうだ。松原隆一郎「経済学の名著30」のいちばん最初、ロック「統治論」の紹介と解説を読んで、大学で「政治経済学部」というふうに政治と経済が合体しているのはなぜだろうという疑問がちょっと解消。所有とか分配とかが問題になってくると、純粋に経済の分析だけでは解決しなくて、政治の問題にもなってくる、というのは、たしかにそうかもしれない。理論が経済、実践が政治、というふうに。でもwikipediaの「政治経済学」のページを見てみると、そういうわけでもないのかもしれないし、「政治経済学部」のページをみてみると、現在そのような名称の学部のある大学は6つしかない。なんとなく一般的なくくりというか学部なのかと思っていたがそうでもなさそう。「経済学の名著30」は一冊の名著(古典?)につき10ページくらいでささっと読める。とりあえずざーっと流すにはいいかもしれない。経済学の歴史は30冊の名著で要約できるものでもないだろうし。ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」が最後から3冊目、ドラッカーロールズのあいだで紹介されていて、その、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」の紹介と解説より。

 さらにジャン・ボードリヤールは本書で、バルト的な消費の記号論に、社会的な論理を付け加える。本書において消費とは、商品を意味の体系において認識し、その消費によって自己を社会のなかで定位するための無言のコミュニケーションである。
 こうした人間観は、個人には確固とした欲望と商品に対する選り好みの体系があり、しかも矛盾なく選択する合理性をも併せ持っているとみなす新古典派特有の「近代的自我」の観念を、真っ向から否定する。人は他人(もしくは社会)がつくった商品の意味体系に沿って消費することで、無言のうちにメッセージを交換しあう社会的動物なのだ。人は自分のなかにある表現意欲に従って服を着ているだけであり、「ほんとうの自分」が存在すると新古典派が暗黙のうちにみなすのに対し、ボードリヤールはそんな「自我」など迷妄にすぎない、人は社会があらかじめ用意したコードに合わせて個性を表現するだけだ、と考えるのである。

こうして続けて引用してみると、最初のアフォーダンスうんぬんのと、次のボードリヤールうんぬんのは関係があるような気がしてきて、もちろんどちらも関係付けるつもりで引用しているわけではなくて個々に気になったからだけれど、まったく同じようなことを言っているなと思う。でもすぐにまるで違うことを言っているなと思う。『「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」する』と『表現意欲が、社会があらかじめ用意したコードに出会って、個性を表現する』。前者は「変化」なのだけれど、後者はどちらかといえば「(個性の)固定・規定」という意味合いが強い。そしてここで「はじまり」として仮定している「表現意欲」はそもそもブルート・ファクツではなくて、それがなぜかというと、たぶん人間は「表現意欲→社会があらかじめ用意したコード→表現」というふうな流れではなくて、「社会があらかじめ用意したコード→表現意欲→社会があらかじめ用意したコード→表現」というふうな流れで、表現意欲を満たしているように見えるから。表現意欲がまずあるのではなくて、社会があらかじめ用意したコードのほうに先に触れるのだと思う。そして、引用した箇所では服を着ることについてだったけれど、服に限らず「個性の表現」とされていること一般にも当てはまると思うし、「服を着るように」芸術している、音楽している、演劇している、写真している、絵画している、表現している、っていうのは多かれ少なかれみんなあるんじゃないかしら。んん、『「人間(はじまり)」が「社会があらかじめ用意したコード(まわり)」に出会って「表現意欲が発生(変化)」する』というふうに考えると、このプロセスは『「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」する』ともいえる。でもこの変化、表現意欲の発生とはいったいなんなのか。結局はたんなる自我地獄なのではないか。たいへんだな。。「B 非機能的な体系または主観的言説」まで読んで放置していたボードリヤール「物の体系」の「C メタ機能=非機能の体系―ガジェットとロボット」を読み始めるが、いつものようになんだか分からないが、分かるような分からないようなところもある。あと、青木淳「原っぱと遊園地」は「Ⅰ そこで行われることでその中身がつくられていく建築」の「映像性について」まで読んだ。次は「水晶の束としての摩天楼」。ルイ・ヴィトンニューヨークについてだと思う。今日、口笛文庫で手に入れた西沢立衛「建築について話してみよう」は目次のまえにある「ぼくが建築家になった理由」を読む。目次のまえにあるから序文的なものかと思いきや、けっこう長い。26ページ。対談だけど。さいきん建築が気になるのは、人間と、(建築という)物理的なモノ/抽象的なコトを通して、関わるから、だと思った。やっぱりその「関わりかた」っていうものが、映画とか絵画とか音楽とか詩とか、他の芸術形式とは異なる。いま「他の」って書いたけど、これはたんに建築を芸術だとする人もいるからこう書いただけで、実のところ、建築は芸術だとは思えなくて、これはもちろんよい意味で。芸術の嫌なところがあまりない芸術とでもいえばいいのか。物理的、具体的になにかしら「つかう」ためにつくられるもの。プロダクトデザインも同じか。もちろん「つかうため」=機能主義なんて短絡ではないし、それこそ機能美とかでもなく、機能がどうとかいうよりも、必要に即しながらあたらしい体験をつくる、ということなのか。いや、あたらしいというかおもしろいというかその時代に即したというか、、言い方がむずかしい。気にしなければいいだけなのだけれど、「あたらしい」とか「おもしろい」とかには気をつけたい。これらにはなんとなく「進歩」のベクトルだけを偏って重視する視点が感じられるし、かといってふるいものだけがよいかというとそうでもないし、あたらしいとかふるいとかはあまり関係がないのかもしれないが、ではなんと言えばいいのか、というときに難しい。「人に変化を促すもの」とでもいえばいいのか。変化、とだけいうと、どう変わるかというベクトルの向きは問われなくなるが、変わることはよいことなのか、という問題が出てくる。「変わる」があるから「変わらない」がある、というような禅問答みたいな答えもできるけれど、「変わる」のがよくもわるくも自然だとは思う。「変わらない」ためには変わらない努力をしないといけないが、ほうっておいたらなんでも変わっていく。アンチエイジングとかいうのは、変わらない努力のひとつか。変わらないほうがよい「もの/こと」っていうのはどんなものがあるだろう。変わらないほうがよい、というか、変わらなくてもよい、かもしれない。変化のための変化はやはり不要だろう。違うための違いと同じく。