ほいでその山本握微君が何日か前ツイッター

「普通芸術家」と「日曜画家」の違いは、シーンを意識しているか(渡りあえ得るか、とも)否かなのだが、この点は誤解されやすい。何せ、特殊芸術家の皆様からして「シーンなぞない。少なくとも私は意識してない」というもんだから。
https://twitter.com/elevator_p/status/206747571266387968

といっていて、握微君が常々提唱している普通芸術家がなにかというと、私の理解の限りで書くと、アートを生業とせず(生業を他に持ち)、かつ、現在のアートシーンにコミットすることのできる作品を生み出す者、ということかしらな、たぶん。なので、ヨーゼフ・ボイスがどうとかというのは関係ありそうでまったく関係ない。むしろ正反対ですらある。ボイスの芸術家像は拡張された芸術概念が前提になるけど、むしろ普通芸術家は芸術概念を縮小する。縮小というか最低限にする。アートシーン内での競争・切磋琢磨による、”より優れた作品の創造”を芸術行為の目的とする、のだと思われる。だから「自己セラピーとしての芸術行為」も「社会貢献・社会活動としての芸術行為」も否定すると思う。もしそれらが現行のアートシーン内で影響力を持つのであれば別だろうけど。あと「アートシーン」と簡単にひとまとめにして呼びうるものがあるのかという疑問があるかもしれないけれども、まあこれはどうなのか正直わからないけど、あるっちゃああるように思う。もちろん、「現代アート」シーンを想定しているとは思うけど。ともかく、「シーンなどない」っていうのは事実に反する。「シーン」=「状況」はある。評価の仕方の集合体のようなもの=体系・秩序として、話題の場として、その分野に興味を持つ者たちをすべてひっくるめた範囲・集合のようなものとして。そもそも、なんらかの「分野」が「分野」として成り立っている、つまり、多くの人がなんらかの同一のルールや形式やテーマや問題や評価の体系・秩序のもと、それぞれに試行錯誤し、それらを自由に発表することができる状態にある、からには、状況という意味でのシーンは必ず発生する。もちろん無視するのは可能だが、たとえば「アート」のルールのもとつくられたものを「アート」の評価の体系・秩序のある場=アートのシーン以外で発表することが可能なのかどうか。ここでいう可能かどうかっていうのはなんというかな、発表を前提とするか否かに関わらず、なにかを「なんらかの方法で」あるいは「なんらかのルールのもと」つくるからには、その方法・ルールにすでに含まれている「評価の体系・秩序」に縛られるのではないかなということで、作者が「どういうつもりで、どのように評価してほしくて」つくるか、という問題ももちろんあるけれど、それよりもっと根っこの問題として、「どのようにつくるか」にすでに「どのようにみる(評価する)か」が含まれているような気がする。これはたぶん、「つくる」と「みる」の間になんらかの強い関係がある、もしくは、「つくる」と「みる」は、ある同じ現象の異なった側面をそれぞれの言葉で切り取ったものである、という可能性もあるようなないような。「つくる」は「みる」に縛られているのかな。いまのところの直感だけれども、「つくる」から「みる」を切り離すのは、無理っぽい。「つくる」あいだに先取りして「みて」しまうし。どのようなモノあるいはコトができあがるか、あらかじめ”まったく”予期せず、つくることは不可能だと思う。これは偶然性とかそういうレベルの話ではない。偶然を利用すればあらかじめの予期とは離れたモノ・コトになるであろう、というような予期すらない状態というのは、考えにくい。「予期=あらかじめみる」と「つくる」の関係は切れない。まあ、切る必要もない。あと、「つくる」主体と「みせる(発表する)」主体が違う場合も同じだと思われる。誰かがつくった、あるいは、つくるという意識もなく残したなにかを、別の誰かが「みせる」としても、その別の誰かが「みせられるものとしてのなにか」を「つくる」ことになるような。なにかを「なにとしてみせるか」はそれ自体すでに「つくる」行為だし。まあまあ、ともかく、誰かの評価にさらされる場においてなにかしらの行為をやる場合、「シーン」からは逃れられない。ある分野・あるシーンから別の分野・別のシーンに移動するとか、いまあるシーンに新たなルールを書き加えていくとかはできるだろうけど。「シーンを意識してない」で思い出したけど、「できるだけ多くの人にみてほしいです」というのもよく分からないちゃあ分からない。いや、文章の意味は分かるけど、そこで言われている「多くの人」の範囲がはっきりしないためまったく意味をなさないように思われる。たいていの場合、自分のコミットしたいシーンにおける「多くの人」なので、文字通り「特定のシーンに限らない、可能な限り多くの人」(≒想定しうるすべての人?)と捉えると意味不明になってしまう。うーん、そこはもう当たり前だから省略してあるのかな。「特定のシーンに限らない、可能な限り多くの人」(≒想定しうるすべての人?)がみて(その人のなかで)意味を為すようなものをつくることはなかなかむずかしいというか不可能なんじゃないか。むりやりみせつけることはできるけども。ただみるのと、みて(その人のなかで)意味を為すのは別だろうし。いやいや、まあまあ、「つくったもの」の規定する「みるであろう人」をどうにか少しでも広げようとすることはよいことだろう。広げようともせず(流通方法は言うに及ばず、つくりかた自体にも工夫を凝らすことをせず)「みようとしない人」が悪いとかいうのはよくないが。よしとりあえずこんくらいごちゃごちゃ書いておけば、次会ったとき握微君に還俗したとは言われまい。いや、言われるのはいいけど。喩えが言い得て妙だし。ここに書くことの内容や関心が変わったのは確かだ。あと、かんぞく、でなくて、げんぞく、だった。