家業の手伝いというかお使いにて急遽昨日から東京にいて今日の19時の飛行機で戻る。昨日は直嶋君平間君川口君神田君河野さんあとから神田君のお友達と飲む。外というか高架下のなんかの閉店後の店の前で。ワークショップとかなんとか書いてあったような。金がないから外で!外で飲むっていうのは初めてかもしれない。いつも飲むとかないし。いま平間君がキャベツ太郎をこぼした。キーボードの汚れをとるやつ使ったことありますか?と平間君が訊いてくる。と書いているので、答えられない。スライムみたいなやつをにゅーっとキーボードのうえにのせて乾いたら取るらしい。時間がもっとあったら、嵐君にも会いたかったし、吉村さんや木下さんにもお会いしたかったが、今回はちょっと無理だった。19時までなにをするかとかさっきまで平間君と考えていたけれど、よく考えたらいま14時半なので、そんなに時間はない。17時半くらいに出発しないと離陸30分まえには羽田に着かない。ずっとまえに10分まえに空港に着いてチェックインというのかそういうのを機械でやろうとしたら、できなくて、発券機みたいなののあたりをうろついている職員のひとに訊いたらもうだめだと言われる。平間君は起きてすぐモンティ・パイソンのDVDをつける。これからどうするか。新宿に行き、ジュンク堂行ってみます?とのこと。どっか行きたいところあります?あるってればなんか、、、。とのこと。とりあえず新宿に行ってみることにするけれども、新宿に行ったからといって東京ならではのものがあるかというと微妙なところでもある。それについて平間君のコメントをもらうことにする、以下。 そういえばさっき平間君がヴァンダイクパークスのヤンキーリーパーを掛けながら、イントロが演歌っぽいとか言っていて、最初は違うかなと思ったけど途中から演歌っぽく聞こえてきて、あ、演歌っぽいねと言ったら平間君はいや違うと言っていた。昨日平間君と夜中の三時位に今日の朝の為のカレーを作っていて”明日の朝の為に”というフレーズがなんか良くて二人で何回か事あるごとに言っていた。カレーを作る途中で勝手に冷蔵庫を明けてヨーグルトを取り出してカレーに入れようとしたら床に落として平間君から借りたジャージにも着いてしまった。落ちたヨーグルトを拾ったら中にカビが生えていて、賞味期限が10日位過ぎていて結構匂いがした。前回平間君の家に来たときよりも、かなり部屋が整理されていて、めっちゃきれいになってるなぁと言ったが、平間君は何も言わなかった。今は14時55分、もうたいしてどこにも寄れないかもしれない、まあいいか。何もせずに済んだら一番いいのだけれど。 かといって、何もせずにといっても結局外には出ないといけないので、飛行機があるし、飛行機があるのは私だけだけれど、19時の飛行機なら、18時半くらいには羽田空港に着いていないといけない。京急で。昨日は雨で今日は晴れているけれど風がつよい。平間君ちの台所に一昨年大阪に来たときにももってきていたギターがあって、べろん、という音しか鳴らないのだが、なんとなくカレーをつくっているあいだ、触って鳴らしてみたら、おっ、場面が変わった、とか言っていた。たしかに、ドラマというか演劇というかコントというか、そういうのの場面の転換の音のように聞こえなくもない。カレーで「明日の朝のために」がどうこうっていうのは、私のほうからも説明をすると、銭湯から帰ってきてぼちぼち寝るかというような深夜にカレーをいきなりつくりだしたので、つくりだしたといっても昨日つくったやつの残りに水を足してつくり足しというべきか、なんでいまカレーつくんの?と訊いたら、いや明日の朝のために、と平間君。明日の朝つくるのは面倒らしい。さっきこれけっこういいなあと平間君が言っていて、これっていうのは、いまかかっているヴァンダイクパークスのなんかのアルバム。なんていうアルバムかは知らない。ヴァンダイクパークスも名前は知っているけど、よく知らない。平間君のibookから日記の更新。去年だったか、来たときにはついていた、キーボードのゴムのカバーはとれている。ここでいったん更新というかアップロードした。その後、なんだか分からないがとりあえず新宿へ行き、タワレコジュンク堂に行き、新宿のジュンク堂のはいっているビルの地下2階にある東京なんとかというカレー屋で東京カレーとヨーグルトのなんとかのカレー、ごはんを挟むように二種類のルーをかけてもらえる。あっ、そういえば、東京ルー、っていう店名だったかも。平間君は、ヨーグルトのなんとかカレーと東京カレーを、私はヨーグルトのなんとかカレーと東京カレーを、とオーダーしたけれど、ルーの種類を言う順番が違うだけでけっきょく同じだった。ここは、一宿一飯の恩義、ということで、私のおごりで。といっても810円くらいのカレーだけど。まあまあ高いといえば高いけど。いぜん違うところでここのカレーを食べたことのある平間君はふつうのカレーですよ、と言っていて、期待値がものすごく低かったからよかったのか、そう言うわりにはけっこう美味しいじゃん、と。それにしても、なぜ東京に来てまでタワレコジュンク堂に行ってしまったのか。当初は、東京都現代美術館池田亮司展をみようかなと思っていたのだけれど、なんとなくやめた。平間君ちでなんか見に行くもんないかなと言いつつ福居伸宏さんのはてなダイアリーをみてみたりしたが、東京の展示情報がいっぱいあるので、膨大に行われている展示のなかからどれかを選ぶのも面倒になり、だんだんとそもそもなにかの展示をみるということ自体が面倒になり、なんとなく、新宿で、どこにでもある、ジュンク堂タワレコ。もちろんタワレコはそんなに面白くもなんともなく、スタジオボイスのミニマルミュージック特集をミニマルテクノ特集だと勘違いした私と平間君は試聴機のところに置いてあったスタジオボイス当該号をひとしきり立ち読んで、ミニマルテクノじゃない、、と気付く。ジュンク堂は建築の棚とか芸術の棚とかいろいろいっぱいあるのはあるが、なにも東京で見る必要もないといえばない。昨日、お仕事というよりお使いを終えたあとに行った、原宿だったか、たぶん原宿のあのなんとか通りを横切ったのでそのへんだろう、降りた駅は明治神宮前だけれど、アシストオンというお店で見たNAVAというイタリアのメーカーから出ている深澤直人さんデザインのバッグは、思っていたよりも小さかった。ちょっと大きすぎるような気もすると思っていたので、「良い意味で」思っていたよりも小さかった。生地の触った感じはわりあいザラッとしていたが、麻袋ほどザラザラはしていない。このバッグは3種類あるのだけれど、それぞれ3WAY、2WAY、ショルダーポーチ、というふうになっていて、私が気になるのは3WAYで、なぜかというと、ポーチだとおそらく小さすぎて2WAYのショルダー時のは大きすぎるから。もし買うとしても主に3WAYのショルダー時だけで使うだろう。まれにトートとしても。それで実際に見てみて気付いた難点としては、「〜WAY」もの一般の難点でもあるのだろうけれど、具体的にいうと、トート時の皮製の持ち手をショルダー時には内側にしまわないといけないのだが、皮製なのでそんなにぺたっと存在しないかのように収まってはくれないので、多少もこもこすること。3WAYというときに、仮に[A]WAY、[B]WAY、[C]WAY、として、[A]WAY時は[B]でも[C]でもないわけだけれど、かといって完全に[B]WAYとして、[C]WAYとして、の存在感が消えたわけではないので、それらがぼわっともやっと主張してくる。いま川口君からもらった、宇波さんのヒバリミュージックから出た、川口貴大「n」が終わった。川口君の、キッチンタイマーメトロノーム、を使った演奏(パフォーマンス?)って、ライブはもちろん面白いのだけれど、そのまま録音物化しても録音物なりの面白さが生じる気がするというか、わりとどんなメディア・環境であっても、なんとなく成り立つ気がする。そのことはちょっと面白いというか、メディア・環境が変われば意味(こちらの受け取るもの)は変わるのだけれど、個々のキッチンタイマーが刻む時間の幅(鳴り始めてから鳴り終わるまで。どれだけネジを回したかで決まる)の重なりあい、という意味ではライブも録音物も同じかもしれない。1曲目は大量にキッチンタイマーを置いていくのだけれど、これはライブでもよくやるけど、これのなにが面白いかといえば、ひとしきりたくさん置いてあとは鳴り終わる(個々のタイマーの設定時間が終わる)のを待つだけなのだけれど、ある一定のキッチンタイマーの数を超えると、「何個の」というより「たくさんの」キッチンタイマーのカチカチが鳴っている、というふうに感じられて、でも確実に鳴っている音は減っていっていて、そのあいだに音叉の弓弾きとかメトロノームとか改造扇風機とか出てきて、そうこうしているうちにぼんやりと、あっ、キッチンタイマーの音が減ってきている、、と気付く。もうそんな時間か、、というような(おっ、でもこの1曲目、そんなふうには構成されてなかった。ライブではそういう構成もあった)。そこからぜんぶ鳴り終わるのを待つ。演奏の「終わり」を待つ。ここの「待つ」っていうのがけっこう面白い。すべてのキッチンタイマーが止まるまで待つことで、なんだかわからない達成感が生まれる。去年の9月にやった「時はゆく」って曲(っていうのも気が引けるし、いちいちなんでも「曲」っていうのもバカバカしいし、でもそのバカバカしさも笑える場合があるにはある)もたぶん「待つ」タイプのものだった、やってみたら。おっ、川口君の「n」、さっきはラジカセのスピーカーで流し聴きだったけど、いまヘッドフォンで聴いてみたら、いろいろ発見が。1曲目は「n+2」という曲名で、これはキッチンタイマー「たくさん」=「n」+(プラス)メトロノーム・改造扇風機で「2」。厳密にいうと「n」=「任意の自然数」。2曲目は「1」という曲名で、文字通り1個のキッチンタイマー。3曲目は「n」という曲名で、文字通り任意の(自然)数のキッチンタイマー。曲(トラック)が始まった瞬間にもうすでに音がたくさんあり、鳴り終わるまえに曲(トラック)は終わる。4曲目は「8n」という曲名で、文字通り「8」×(かける)任意の(自然)数、つまり8の倍数の数のキッチンタイマー、ってことなのだろう。この曲もいきなり最初からたくさん音が重なっているから、音から個数までは割り出せない。5曲目は「2」という曲名で、文字通り2個のキッチンタイマー。4曲目の「8n」を聴いていると、ときどき違う録音テイクをつなぎあわせたみたいにふっと位相というかなんなのか空間における音の鳴りが変わるのだけれど、これはいったいなんだろう。このCDについて、音がふっと移動するんですよ、と平間君が言っていたが、このことなのか?それはそうと、おとといは九品仏D&DEPARTMENTに行ったのだけれど、というかこれがお使いなのだけれど、2階壁面にこの前おこなわれたという「60VISION MEETING in TOKYO」のマルニの方を招いた会の、アンケートのようなものが貼ってあって、参加者の方から寄せられた質問にナガオカケンメイさんもしくはマルニの河村謙一さんという方が答える、というものらしい。質問も答えも文字なので、会の質疑応答の録音なり映像なりから文字起こししたのかと思いきや、事前に文字で寄せられた質問すべてにそれぞれ答えたものらしい。そりゃすごいな、、労力が。けっこう本気の質問が多くておもしろい。D&DEPARTMENTのやっていること、ざっくりキーワードでいえば「ロングライフデザイン」ということが、流行に流されないもの、をテーマにしつつも、「流行に流されないもの」という「流行」に終わってしまう可能性がないか、そしてその対策などは?みたいなものがあって、これは私も思う。http://d.hatena.ne.jp/k11/20080803とか。でもちょっとこのアンケートというか、質問と答え、を読んでいると、ナガオカさんは自分たちのやっていること・扱っている商品(モノ)が唯一の良いデザイン、ロングライフデザインだ!とか言いたいわけではなくて、あえて極端に言うことで、問題提起をしているのだなと思った。たぶん、やっていること・扱っている商品は一例なのであって、消費者としての私たちはそれらを愛でることが求められているのではなく、デザイン=社会を設計すること、についてそれぞれ考えることが求められているのだと思う。まず、問題なのは、「つくらなくてもよいもの」がつくられることであって、なおかつ、「必要だから」というより「売る」ため、つまり経済を循環させるためだけにものがつくられる、ということ。そしてもうひとつ厄介なのは「つくる」ためにつくられること。つくりたいからつくる、という。「答え」を出すために無意味で不必要な「問題」をつくりだすことに似ている。解くための問題など問題ではない。というのもあって、アートとか音楽とか、なにかを創作すること一般によくあるけど、「やりたいからやる」とかいうぼんやりした同語反復は正直よくわからない。「自分はなぜこれをやるのか」という問いから逃げて、「やる楽しさ」だけに閉じ篭っているようにしかみえない。「自分はなぜこれをやるのか」っていうのは、別に、社会的に価値があるかどうか、とか、需要がある=社会に求められるかどうか、とかいうはなしではなくて、ただたんに、自分はどのような欲求で動いているのか、というだけで、それに無自覚だと、ただの独り善がりなひと・こと・もの、になるのではなかろうか。そしてこれはよく言われることだと思うけれど、アートとか音楽とか、なにかを創作すること一般をやることで満たされるのは、表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲(他人に認められたい!)あたりで、創作にまつわる人間のこういう欲求をうまく刺激して経済に結び付けたのが、たぶん出版代行(新風社とか?)とか箱貸し・スペース貸しビジネス=ライブハウス・クラブ・貸しギャラリー、なのではないかと思う。作品の発表を代行する、という意味では出版代行(新風社とか?)もライブハウス・クラブ・貸しギャラリーも同じだ。出版代行と、イベント代行、展示代行。発表の場をあなたに!という「発表機会提供サービス」。サービスの対価さえ支払えばとりあえずだれでも発表できる。もちろん敷居はいろいろだろうけれども。こういう仕組みでややこしいというかあざといなというか鬱陶しいなと思うのは、明らかに「発表機会提供サービス」というビジネス=商売でありながら、文化を盛り上げるとか文化を担うとかアーティストをサポートするとか言うだけで、公共の利益、公益性があるかのようにみせかけられること。「発表機会提供サービス」が成立するためには、大量の発表したい人、創作者、アーティストがいることが必要なのだけれど、ということはつまり、大量の表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲が市場に溢れていないといけない。これはもう考えるまでもなく、溢れるほど溢れている。仕事に打ち込めない、仕事を通して社会に関われない人たちの表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲がどこに向かうかというと、アート(広い意味での)しかない。社会と関わる、他人と関わる、いわゆる「仕事」と違って、アートの世界では自分だけの価値観に閉じ篭ることができる。いまの時代って、なんでもかんでも相対化されてしまうので、自分の価値観=自分のやっていることが「客観的に」否定されることがない、というか原理的にできない(「人それぞれ」)。なにかをやってもやった本人の主観だし、そのなにかについての判断を下したとしてもそれをした人の主観だ、ということになっている。とにかく「意図」=「主観」という閉じた自己の世界。自分のやったことがつまらないとかダメだとか言われたり、客がこない、とかなったとしても、鑑賞者・消費者が悪い(時代がついてきていない、理解できないのが悪い)というふうに捉えるか、創作者・生産者の力量がない(もっと頑張らないと!)、ってことになり、そのふたつの問題について考えるだけで、そのまえの「なぜつくる」・「なぜみる」というようなところを無視したまま、欲求の連鎖だけが続いてゆく。そして「発表機会提供サービス」も続いてゆく。平間君と冗談交じりにはなしたのは、ライブハウスのブッキングライブに出演して、いくばくかのチケットノルマ(という名の参加費=発表機会提供サービス料)と引き換えに40分の出演枠を得る(買う)とする。そしてさらにその得た40分の出演枠を4つに区切り、それぞれにチケットノルマを課して出演者を募る(ブッキングライブ内ブッキングライブ)。そしてさらにその10分を4つに区切り、それぞれにチケットノルマを・・・以下同文。ということをやれば、理論的には、ねずみ講みたいに莫大な利益をあげられるのではないか。というか、構造は同じなんじゃ。そしてそのピラミッドのいちばんうえにいるのは「ライブハウス」という。出版代行と違ってそういう箱貸しが問題にならないのは、借りる側が文句を言わないからで、なぜならお金を払ってでもやりたいから。それがなぜかというと、もう書いたし、「客を呼べるようにさえなれば・・」というゴールが設定されているので、文句を言わずそれをみんな目指しているから。広い意味でのアート・創作の大量生産大量消費サイクル、大量の生産者と大量の消費者というサイクル(大量の商品・大量の消費者ではなく)、ってひょっとすると、一般の商品のサイクルよりタチが悪いというか、デザインが大量消費に荷担していることよりもひどいのかもしれない。人間の表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲を、「よりダイレクトに」くすぐる、という意味で。とはいえ、これも極端に言っているだけで、ポジティブな面もありはするんだろうけど、いまのところ、見えてないのが問題か。