一昨日かその1日前か、杉の木が切り倒されるのを見て、切り倒された瞬間、どーんと倒れて、場aaaa、という変換をするATOK。F7がきかないのよね。カタカナになかなかならない。杉の木はどーんと倒れて、ばああああと花粉らしき黄色いもくもくが。ざっくりとメモ。複製技術、記録する技術が、人間の感覚に影響をあたえる、というのは当たり前のことだけれど、たとえば一般的な音楽だったら、複製=CD、MP3などでまず聞いて、その曲の再認のためにライブに行く。好きな曲のイントロでばあっと嬉しさがこみあげる。この場合、ミュージシャンは「演奏家」というよりも「再生装置」になっている。観客にとっての楽曲を再認する嬉しさと、ミュージシャンにとっての楽曲を再生する嬉しさ、はとても近い。そういう意味で、ライブは複製(=CD、MP3など)を前提としている。なんか前に直嶋君も書いてたけど、そうなると、ライブを録音(複製)するっていったいなんなのか。録音されるライブは意識するにもしないにもかかわらず「音楽」としてなされている。録音、すなわち、音を録る。出来事の「音としての側面」だけを録る、わけで、それはそのまま音楽的複製品=CDへとスライド可能であり、だからこそ、『音楽的複製品(CD)とは録音物のことである、録音とは音を録ることである、音を録るとは対象となる出来事の「音としての側面」だけを記録することである、よって「音としての側面」だけを記録された出来事=録音物は「音楽」である。』というような転倒が可能になる。おっと、ライブの視覚的な面も考慮するなら、録音じゃなくて動画撮影にしようか。でも次元が増えるだけで、事情は同じ。ライブ映像を観るようにライブを観る。現にでっかいドームのライブとかだと、ステージが直接見えない人のために、ステージ上の映像を観ることができるスクリーンが設置してあったりする。ライブを録音(複製)するっていったいなんなのか、って思うのは、自分自身がライブを録音しようと思わないからで、なんといったらいいか、録音しよう!ということは、つまり(自分の)表現は聴覚だけで事足りる、という判断なのだろうけれど、私の場合、ライブ、パフォーマンスか、においては、録音に限らず記録を前提にしていない、というか、あまり念頭に置いていないし、パフォーマンスでやったことを記録して世に出したい、ということも思わない。そもそも自分のやっていることを記録しても無意味な気がする。。ライブ・パフォーマンスの記録、っていう言い方は矛盾していて、一回きりの出来事を反復できるよ、ということで、記録することを前提とした(一回性の)パフォーマンス、というとき、そこでしないといけないのは、反復に耐える一回きりの出来事を起こすこと。まあでも強引に反復してしまえばいいだけなので、そこまでは考えなくてもいいかもしれないし、考えられてもいないかもしれない。そして気になるのはそこじゃなくて、こういうときにいう「反復に耐えるクオリティ」っていったいなんやねん、ということで、耐える/耐えない、じゃなくて、反復させる/させない、ってだけじゃないのか、とも思う。さらにいえば、反復に耐えられないのは「出来事(の複製)」ではなくて、私たちの感覚なんじゃないか、とも思う。そういえば、去年の2月に銀座のギャラリーでやったパフォーマンスを平間君が動画撮影してくれていて、それをもらって見てみたのだけれど、すぐに飽きて終わりのところまで飛ばした。記録でみるとぜんぜんこれっぽっちも面白くなく、私(と私のやったこと)は反復に耐えられなかった。見方を変えれば、なにか面白みがあるのかもしれない。そのときそこにいた当事者として見てしまうと、ぜんぜんこれっぽっちも面白くない。なんなら、そのときも面白くなかったような気すらしてくる。いや、私自身は面白いとは思ってなかったけど。なので、たぶん、一回きりのつもりでやったことを「ドキュメント」として世に出すのには、それなりの戦略というか工夫がいる。見方を変える工夫。記録だけに接する人が、擬似的に一回性を体験するようなベクトルだと、面白くもなんともないかもしれない。直嶋平間竹内小田コンピをやっていて気付いたのは、一回きりのつもりで、一回きり用のことをやるのと、反復されるつもりで反復用のことをやるのは、それぞれぜんぜんやり方が変わる、という当たり前のこと。そもそもライブと複製では性質が違うから(だいたい厳密な再現性は現時点でのどの複製メディアにもないし、厳密な再現性がないから複製たりえているのかもしれない)。たとえば、『4つ打ち(コンピュータの内蔵マイクを右手の親指で叩いて擦る)』http://d.hatena.ne.jp/k11/20081205をライブでやってもぜんぜんこれっぽっちも面白いとは思えない。私自身が観客だとして。一回と反復、というのは、手と機械、とも近いかもしれない。