渋谷慶一郎さんがブログで書いていたが、アウトプットだけだと良くない。というのは、あると思います。元日、迷子のおばあちゃんをおうちに送り届けたあと、初詣をするべく神社を探しているとき、アサダ君がこのへんに神社あったよなあ、というようなことを言ったあとに、続けて私が、あると思います、と言ったら、地味によなさんに受けた。元ネタというか参照項を知っていたのだろうか。それを知らないと「ある」の意味が変わっていることに気付かないだろうし。でも知らなくても地味に面白いかも、どうやろ。会話は「即興」の最たるものだ。「即興」ってひょっとしたら、即時的な構成、というわけでもないのかもしれないし、新たな「瞬間」の連続、というわけでもないのかもしれない。おっ、「ない」を積み重ねる。状況に追い詰められて追い詰められて飛び出る謎の一手。「ひぐちカッター」みたいなもん?中学・高校のときによくやっていた遊びというか、良いきっかけを見つけたら突然始まる遊びがあって、あるモノに対してその背後にある物語(というより設定・属性・性格)を即興で掛け合いながらつくっていくものだけれど、その良いきっかけというのははなしが広がりそうな良いネタということ。休み時間や帰る時間なんかに目にしたそのへんのものを対象にいきなり始まる。必ずしも目の前にあるモノを対象にしない場合もあって、ある固有名詞をきっかけに始めることもある。中学のときは毎日の行き帰りに自転車に乗りながらやっていた。相手の出した設定をうまく消化しつつ自分の設定を重ねたり対置させたり置き換えたり。そのモノ自体の文脈から逸脱しきるわけでもなく、それを生かしつつうまくズラせると面白くなる。という遊びを、wikipediaの「即興劇」の項を見ていたら思い出した。

即興によるシーンを成功させるためには、話の中心(focus)を定め、出演者たちが協力し、それぞれが責任を持ってその物語の性格や流れを定義していかなければならない。<中略>シーンを構成してゆく行為を特に「オファー(offer)」と呼ぶ。これは「エンダーメント(endowment)」とも呼ばれている。<中略>出演者は、共演者のオファーを受け入れる(accept)ことが重要である。<中略>オファーを受け入れることによってそれは同時に新たなオファーを追加することになり、結果的にシーンをより早く構成することができる。これこそが、インプロバイザたちが「イエス、アンド…(Yes and)」と呼ぶものであり、即興劇の技術の要となるものである。すなわち、相手からのオファーを「イエス」と受け入れた上で、さらに「アンド」する、つまり自分から出したアイディアを追加することで、即興劇中の世界観・設定・登場人物たちの関係・ストーリーなどが構築されていくのである。

ぜんぜん説得的ではないけれど、私の経験上、人前でなにかやるっていうとき、追い詰められたり多少投げやりになっていたりする方が思い切りがよくなり、意外に受けたり楽しんでもらえたりする。そこに柔軟性が加わるとなおよいかもしれない。もちろん9月14日の演奏会でも私は追い詰められて、

2008年9月14日(日)
時間:開場:10:30 開演:11:00 終了:18:00頃
料金:2000円
会場:FLOAT
演目(上演順)
Manfred Werder 「2007 1」(選曲 竹内光輝)
直嶋岳史 「Objective 4/5」
平間貴大 「素数素数番の奇数番目と偶数番目の秒数の単音とその間の連続音 -3019」
小田寛一郎 「時はゆく / Time Passes」


演奏:
直嶋岳史(electronics, tone chime)
平間貴大(rhythm machine)
竹内光輝(flute, melodica, claves)
小田寛一郎(various objects)


http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/0914_nhto.htm

といってもそれは直嶋君の「Objective 4/5」のときだけで、それ以外の曲は「なに」を「どう」やるかが作曲者の指示と4人の話し合いでわりあいかっちりと決まっていたからかもしれない。直嶋君の曲は60分の曲で、ああ、そういえば楽譜をイベントのサイトの直嶋ページに載せていたのだけれど、終了後に時間表記を直したいとのことで、一旦画像を消去したままだった。さっき偶然、gmailにて、平間君と間違えて間違いチャットをしかけてきたので、頼んでおいた。ひとまず直嶋君の曲を楽譜に沿って説明すると、60分の曲で、00'00"から00'30"まで「rest」、00'30"から10'30"まで「perform」、10'30"から12'00"まで「rest」、12'00"から22'00"まで「perform」、22'00"から25'00"まで「rest」、25'00"から35'00"まで「perform」、35'00"から38'00"まで「rest」、38'00"から48'00"まで「perform」、48'00"から49'30"まで「rest」、49'30"から59'30"まで「perform」、59'30"から60'00"まで「rest」、で終了という指示。他には4人の演奏者はそれぞれ別の部屋にいること、他の人の音を聴いて演奏しないこと、他の演奏者の演奏を想像しないこと、の3点が英語で指示してある。楽譜による時間の分割構造の特徴としては、60分のあいだに5回ある「perform」の時間がそれぞれ10分であるのに対して、「rest」の時間が30秒、1分30秒、3分、3分、1分30秒、30秒、と変化することか。あと重要なのは、それぞれの演奏者による「perform」については特に何も指示はないこと。そしてもうひとつ重要なのは、演奏と休止を「perform」と「rest」ということばで指示(表現)したこと。直嶋君によると「perform」の部分についてはそれぞれ自由というようなことだったので、どうしようかなーと思い、というのもこの曲はいわば形式のみを指示していて内容の指示はない。最終的にどのようなかたちになるかは、演奏者のやることがかなりの影響を与える。そこで、なにをやるかというときに、まずひとつ思い浮かぶのが、自分が普段やっていることをやる、とか自分が最近やっていることをやる、とか自分の演奏をやる、とかそういうベクトルの、言ってみれば直嶋君のつくった形式(指示)と直接には無関係な、演奏者それぞれの個性の発揮、というやり方。4つのソロ演奏が同時に、というような。時間の分割構造とは別に演奏者間の物理的な関係も指示してあったところをみると、たぶんこういうことなんだろうけど、とはいえ、その形式と無関係な内容を放り込むのもなあと、ちょっと困る。なにをやったらいいだろうか。いや、むしろ徹底して無関係な方が作曲者の意図としては正しいのか。といっても、やっぱりひとまず、4つのソロ演奏が同時に、というような形式が活きてくる内容はどんなのだろう、と考えてみたが、ぜんぜん出てこない。前日までほんとになにも出てこないので、しかたなく本を持っていくことにする。ほかで使うもろもろと一緒にゴロゴロに入れてゴロゴロと。とりあえずにでもなにか持って行かないとどうにもならないし何も起きない。本といっても小説、それも日本の現代ので、パフォーム中に気付いたけど、男性の小説家のものばかりだった。あんまり女性の小説家の小説を持っていないっていうのもあるけど。これはとくに意識したわけではないけど、変ではある。もう忘れかけているけれども持って行ったのは、福永信「コップとコッペパンとペン」、青木淳悟「いい子は家で」、堀江敏幸「熊の敷石」、高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」、中原昌也「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」、小島信夫「残光」、岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」、保坂和志「この人の閾」だったか「カンバセイション・ピース」だったか思い出せない。諏訪哲史「アサッテの人」もあったかなー、思いだせんなー。哲学・思想・科学とかの専門書は外してあって、なぜかというと朗読するかもしれないからで、専門的なことを書いてある本を朗読すると「それ」っぽくなりすぎるというか、悪い意味で「表現」っぽくなって(押し付けがましいというか)、どうしようもなくダメな感じになりそうな気がするから。小説もそういう意味では微妙といえば微妙かも。といっても、朗読する気はあんまりなくて、お客さんと一緒に別々の小説を読む、というパフォーマンスにしようかという目論見。で、それをどうやるかというと、無言で手招きしてジェスチャーでこれ読んでみて、と伝える予定。なんて事前に頭のなかだけで考えたことの常として、実際やってみるといくらでも変わってしまうわけで、今回も同じく。演奏者はバラバラに別の部屋にいる、との指定なので、前日に会場のFLOATを直嶋君とみんなとで見て、1階、中2階(というか階段の途中の部屋)、階段を上がりきったところ、2階の4箇所に分かれて演奏者を配置することに。みんなどこがいい?どこでもいい、と私は答えたものの、やっぱり2階で、ということで2階でよかった、結果的に。階段の途中の部屋は暑そうだし。こういう小さな選択があとあと響いてくるのか。1階が直嶋君、階段の途中の部屋が平間君、階段を上がりきったところがみつ君、2階が私。1階はシャッターを開け放っている。階段の途中の部屋のドアも開け放っている。階段を上がりきったところはドアはなし。2階のドアは閉めたっけな、どうやったかな。開いてたな、たぶん。そして、1階と2階がエレベーターシャフトで繋がっているので、どうしても1階の音が聞こえちゃうが、そこはまあどうしようもなし。直嶋君は1階でビールだかなんだかとにかく酒のケースを裏返して布をかぶせた机にシンセとリズムマシンを足して2で割ったみたいなのとトーンチャイム(という1音だけポーンと澄んだ音がする楽器)を置きイスに座ってスタンバイ。平間君は階段の途中の部屋でビールだかなんだかとにかく酒のケースを裏返して布をかぶせた机にリズムマシーンを置きイスに座ってスタンバイ。みつ君は階段を上がりきったところでイスに座りフルートをスタンバイ。私は2階の窓際に200cm×40cmくらいの長い木の板とブロックでつくったベンチに本を置きイスに座ってスタンバイ。ああ、そうだ、みんな楽譜立てというかあれなんていうんだっけ。譜面台。それに楽譜とストップウォッチを置く。直嶋君も平間君もみつ君も自前のだけれど、持ってないので私はよなさんに借りる。そういや譜面台ってやっぱりどうしても「音楽」が染み付いていて、別に気にするもんでもないのかもしれないけど、譜面台があるだけでなにをやってもたとえ音がないとしても動きすらないとしても「音楽」の文脈で観てください、ってことにやっぱりどうしてもなるし、さらに、あらかじめ決めたことに準じてやっています、ってことをどうしても強調してしまうので、自分のパフォーマンスで指示の紙とかスコアに準ずるものを見る必要があるとしても(いまのところないけど)ひとまず譜面台は使わない。もちろん、「音楽」の文脈で観るからこそ面白いことや、「決めてある」のが明確に分かるからこそ面白いことであれば積極的に使いたい。私はベンチの端っこ近くにお客さんが来たときに見えるように譜面台を置く。せっかくなので。現実的な問題がひとつ発見されて、1階で4人でせーのでストップウォッチを押して最初の00'30"からの「perform」に間に合うかということで、というか、00'00"からの「rest」も演奏の一部なので、3分ほどずらしたスコアを急遽直嶋君につくってもらって、開始。だいたい13時半くらいか。せーのでストップウォッチを押して各自持ち場へ移動。最初のパフォームの時間がくると平間君の出している音とおぼしきリズムパターンが階段の方から聞こえてくる。ドンタ、ドトタ、というような。ロックでよくある。プリセットで入っているパターン。エレベーターシャフトからは直嶋君のものらしき音も。サイン波みたいな単純な音。みつ君は最初のあたりはそんな音がなかったような。とはいえ、そもそも私はいつも共演者の音をぜんぜん聴いてなくて、いや、聴いていないわけじゃないけど、そういう「状況」として受動的に「聞こえて」いる、というだけで、積極的に「聴いて」はいない。なので、あんまり他の3人の音については覚えていない。この曲のぜんたいを通して覚えているみんなの音については、直嶋君のポーという持続する電子音を出したあとにすぐ続けてトーンチャイムをポーンと鳴らすのがなんかよかったのと、平間君は「perform」の度にひたすらプリセットの凡庸なリズムトラックを流し続けていたのと、みつ君は後半になるにしたがって音数が増えて最後らへんは妙に力を入れて投げやりな感じでフルートを吹いていたのが面白かった、のが記憶に残っている。一回目の「perform」のまんなかあたりか、2階のおだルームにやってきた最初のお客さんは平間君の友達。演奏会のあと、平間君を通して「日記に名前や風貌を書くのはNGで」というようなメッセージを頂いたけれど、そもそも名前を知らない。。風貌は、メガネ男子、というくらいかしら。最初のお客さん(平間君の友達)がやってきたので嬉々として手招きし、これ読んでみて、というジェスチャーだったか、声をかけたか、いまとなっては定かではない。すると、ぜんぶ読んだことあります、との思わぬ反応のため、いきなり最初の目論見が頓挫する。なので、内心かなり焦りつつも、本を介したコミュニケーションというか、これのどこが面白いか、の意見交換に。というよりも単なる雑談。ふたりでいろいろはなしていると、ビデオ(DV?)カメラを持ったよなさんがやってきて、笑いを堪えながら撮影している。いろいろはなしながらも、そろそろ1回目の「perform」が終わりそうで時間が気になりストップウォッチをこまめに確認。その場の勢いで、私の「perform」=「本を介したコミュニケーション」みたいになってしまったので、「rest」もぜんたいのパフォーマンスの一部だし「perform」と「rest」との区別をきっちりしないといけないと思い、「rest」に入るまえに強引にはなしを切り上げ、「rest」中はストップウォッチを凝視してお客さんを完全無視。突然そっけなくされて居心地が悪くなった平間君の友達は仕方なく部屋を出て行く。あとで平間君に聞いたところによると、平間君が1回目の「perform」が終わったあとの1回目の「rest」に音を止めてレストしていると、平間ルームに入ってきた友達に、さっきおださん(私)と楽しくはなしをしていたのに急に時間を気にし始めていきなり無視された、と話し掛けられたらしい。なんだかよく分からない偶然によって、私の「perform/rest」は「コミュニケーション/非コミュニケーション(他者に関わる/他者に関わらない)」になってしまうがなんか面白いのでこれで行こう。無視ってなんだよ、と我ながらバカバカしく思うけど、あの状況ではそれしか思いつかなかった。2回目の「perform」のときにSさんとそのお友達が2階のおだルームにいらっしゃって、Sさんには高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」、お友達には福永信「コップとコッペパンとペン」をすすめる。よかったらベンチに座ってどうぞ。私は残ったなかから適当にパラパラと読んですごす。彼女もやってきたので、保坂和志「この人の閾」をすすめる。2回目の「perform」時間が終わりそうなので、そろそろ時間なので本を返してください、と読んでいる途中なのに取りあげる。10、9、8、7、とカウントダウンしながら。次の「perform」でまた会いましょう。そして「rest」ではストップウォッチを凝視。Sさんとそのお友達は部屋を出て行く。あとでSさんに聞くところによるとそのお友達は「まだ読んでいたのに・・・」とのことなのですが、すいません、そういう規則になってしまったのです。というわけで、3回目、4回目、5回目の「perform」も同じように、本を読み、誰か来ると本を薦める、という生活。「perform」が終わりそうになると本を回収し、「rest」ではストップウォッチを凝視する。「perform」と「rest」の意味が逆転しているような気がしなくもない。しかしそれも「Objective 4/5」という曲、構成があってのこと。3回目の「perform」の途中か4回目の「perform」の途中だったか、おだルームからあまりになんにも音がしないので何をやっているのか気になったみつ君がちらっと覗きにくる。そして笑顔で帰っていく。5回目の「perform」の終わりくらいにまた平間君の友達とはなしていて、最後の「rest」になった瞬間に直嶋君の音と平間君の音が同時に止んだので、「おっ、止まった」というようなことを呟いていた。最後の「rest」の30秒をストップウォッチを凝視して過ごし、終了。やっている途中で思ったのだけれど、それぞれ4回の「perform」ごとにおすすめ本を変えたらなおよかった。小説、美術本、デザイン本、思想書、とか。さっき読んだ本を次の回で読めないようにできたらよかった。そしておそらくは、私がやったことは楽譜=曲について、作曲者の意図を離れた拡大解釈をした結果だと思うけれど、それでも曲の全体が壊れることなく拡大解釈までも収まってしまうことがすごい。で、その拡大解釈を誘発した要因は、「演奏する/演奏しない」という「対」になる出来事を「perform」と「rest」ということばで指示したこと、正確には「ことば」の「対」によって指示したことにある。「演奏する/演奏しない」という対は音楽の文脈でいうと「1/0」に近いけれど、「perform/rest」という対は必ずしも「あるか/ないか」を指示するものじゃない。どっちかというと「対」である、ってことに意識がいく。ここがまずひとつ面白いところ。そしてもうひとつ面白いのは、「ことば」による指示を、あらかじめ指定された時間の分割構造(行為の入れ物)で含んでしまうこと。このことによって、指示の解釈の自由度が、逆説的だけれど、高まっている。入れ物(形式)としての指示しかないけれども、逆にいえば、入れ物があるかぎり、「対」になることでさえあれば「指示通り」ということになる。よって、譜面による指示の解釈を、譜面の外、作品の外、つまり作曲者の意図・背景など、明示されていない「暗黙の了解」に求める必要がない。とにかく「対」になることであれば、なにをやってもいいのだ。「perform」中に寝て、「rest」中は起きる、でさえ楽曲中での「perform」と「rest」になってしまう。直嶋君が意図していたかどうか分からないけれど、この曲=譜面=指示の仕方によって、「ことば」による指示の新たな側面を発見できてよかった。そして、私の「perform/rest」が生まれるきっかけになってくださった平間君の友達に感謝。もちろんあのときの状況のすべてが絡み合った結果だと思うけど。えーと、では「指示の内側からその指示自体を変化させること」つながりで、次は平間君のを書く。でも直嶋君のだけでいったんアップ。