そういえば、高円寺の高架下の閉店後のなにかの店の前で飲んでいたとき、直嶋君が携帯でしきりになにかやっている。なにをやっているかというと、twitterらしく、この単語、よく聞くけどなにかはあまりわかってなくて、ブログとチャットを足して2で割ったようなものらしい。神田君と川口君はiphoneだった。私はipodも持ってなくて、いままで「i〜」持ったことない!と言ってみたが、ituneは?と言われて、あ、持ってた。そもそもibook持ってる。いまだに壊れっぱなしだけど。今日は、6月にとあるイベントを主催している神谷さんとそのイベントに平面作品展示で参加するおふたりと会場の下見兼打ち合わせに同行する。私も神谷さんからお誘いをいただいて参加するので。きのう書いたチケットノルマがどうこういうのは、このイベントにも関係していて、私のようなことをやっている人たちのあいだではイベント開催の金銭的リスクはすべて主催者・企画者が負う、という暗黙の了解があって、逆にライブハウスでは出演者全員がチケットノルマというかたちで共同して負う、という暗黙の了解がある。もちろん、良くも悪くもどっちもどっちというか、結局は同じことのような気もするけど、「金銭的リスクを主催者が単独で負う」と「出演者が共同で負う」という違いが生まれるのはなぜだろうか。とりあえず費用の大きさの違いはあると思う。ライブハウスとかクラブって借りるだけでぜったいに10万は超えるし、もちろんお客がたくさんくれば黒字にもなるかもしれないが、お客が来なくて赤字にもなるかもしれないわけで、そのリスクを個人で負うのはなかなか難しいだろう。だから、何人かで集まってリスクを分担しあいイベントを企画・開催するイベント主催グループとでもいうべき集団がいたりもする。この場合はあんまり、オファーした出演者と共同でリスクを負うことはないんじゃないかと思う。だいぶ昔に、7年前くらいに、まわりの友達たちがやっていた(いまもやっているんだっけ?)tropfenっていうグループがあって、そこの主催するイベントにバンドだったりなんやかんやで2、3回出たことがあるけれど、ノルマや参加費みたいなものは課されなかった。だから、そのグループのメンバーがそれぞれに分担していたと思う。クラブを借りたり、カフェでやるにしても音響機材を借りたりしていたから、費用はけっこうかかっていたはず。お客さんはどうだったか、けっこう来ていたような。あと、今日とつぜんはてなからグリーンスターっていうのを18個やるよ、っていうメールが来ていて、定額給付金みたいだし、なんのこっちゃ分からないが、はてなスターをつけるときに、カラースターのレア度で、共感度というか、そういうのを表す、とかいうことのよう。『特別な気持ちの表現や、大好きなエントリーへの贈り物など、ちょっと目立った色違いのカラースターを自由にご活用ください。』とのこと。そして、カラースターを販売します、という。なんというか、子供だましというか、そんな気もするが、はてなダイアリーでのコミュニケーションをいろいろ面白くして収益をあげたい、ってことなんだろうけど、コミュニケーションでいえばいまはtwitterなのだろうか。よく知らんけど。すくなくともはてなダイアリーでコミュニケーションってそんなない気もするし、別にスターの色とかどうでもいいような。とりあえずカラースターっていうのを無駄遣いしてみようか。イベント開催における、A:金銭的リスクを主催者が単独で負う、と、B:金銭的リスクを出演者が共同で負う、のそれぞれの特徴についてすこし考える。といっても、自分の体験した範囲でしかできない。Aについていえば、自分たちのいつものやりかたなわけだけれど、リスクを一極集中させることで主催者もふくめ関わるみんなが、お金を気にしなくて済む、というのはあるかも。つまり、イベントをやるのは主催者の勝手というか、個人的ななんかのきっかけでやるわけだし、イベントを主催する、というのも表現の一種であるわけで、いってみればイベントという「作品」の「材料費」みたいな気持ちでリスクを負えば、かえって気が楽なところはある。こちらからオファーした出演者も直接リスクを負うわけではないから、お金すなわち集客をそんなに気にせずのびのびやれる、というのもある。なので、どっちかといえば、「やることに意義がある」という向きに気持ちが行きやすい。もともと私たちには、「どうしても見て!」「嫌でもまず見て!」というハングリーさに欠けているとは思うので、「人に見せる」とはどういうことか、という意識が薄くなりかねないし、せまいサークルのなかだけで自足してしまいかねない。でもある程度のサークルがまずできないとなにも始まらないというのもある。Bについていえば、去年の9月に私とみつ君と平間君と直嶋君とでやったイベントにも当てはまると思うけれど、4人で集まって共同で企画・出演するので、リスクも共同で負う、というかたちをとった。リスクを公平に4等分して分担するからにはリターンも公平に4等分で分担する必要があり、そうなると、1日を4人それぞれの持ち時間で分割しそれぞれの作品を個別に上演するというかたちになった。もちろんこうなるのは、リスクを共同で負うことだけが要因ではなく、「自分のやりたいこと」を自分の持ち時間で全うすることが理想のリターンである、という考えがあるからでもある。こういった場合、お互いに話し合って決めたなんらかのテーマに沿って新たにそれぞれが考える、というよりも、もともとある個々の興味や考えの、寄せ集めのようになるわけで、意図的な(なんらかのテーマを持った)編集をしたとしても、またあとからなんらかの共通するテーマを見出したとしても、やはり寄せ集めは寄せ集めでしかないのはむずかしいところ。別にそれが悪いわけではないし、最初から個々の境界をなくしたところでなにかをつくりあげていくのは不可能だとは思う。ここまで書いて寝た。起きてすこし仕事メールをした。というわけで、Bが成り立つためにはイベントの開催とは別に個々の「自分のやりたいこと」がある必要がある。つまり、イベントがあるからなにかやる、のではなくて、なにかやっているからイベントに参加する、という。さっき寄せ集めと書いたけれど、各自が持ち寄るコンテンツというか内容をあらかじめもっていないと、B:金銭的リスクを出演者が共同で負う、は成り立たない。もちろん、なんでもいいからイベント=お祭りに参加したい!というのであれば、あらかじめ「やりたいこと」がなくても成り立つけれど、こういう例はわりあい特殊な気がする。私の場合はこれの変形のような気がしていて、お祭り騒ぎのなかに入るのは嫌いだけれど(神社のお祭りに行くのは好き。お祭りをつくる、というお祭り騒ぎは嫌い、お祭りのためのお祭りが嫌なのか、、よくわからない)、お誘いがあればとりあえず「やる」って言って、本番までのもろもろのやり取りや過程を経るうちに「やること」が見つかるのを待つ、というふう。だからやっぱり、「私のやりたいこと」とか「小田寛一郎っていう内容」を持ってきてくれればいいです、って言われると困るのかもしれない。それだけに、より会場とか関わるひととの会話が必要になるのかもしれない。イベントってなると、あらかじめ決められた条件がいろいろあるのだけれど、条件というより表現環境といった方が適切だと思うけれど、表現環境への私なりの反応をすること、表現環境と相互に作用しあうこと、が「私のやりたいこと」なのかもしれないので、そういう意味では、昨日、神谷さんと1時間ほどゆっくりお話できたのはよかった。誠実なはなしができたと思います。そこからすこし今回の表現環境への自分の反応がみえてきた部分もある。やはりライブハウスっていうのは大きいかと思う。そして、神谷さんと私とで、大幅に違う環境を生きている、というのも大きい。これはちょっと面白い。けっこう違うから、もちろん違和感もあるのだけれど、それもふくめてはなしができたのは、とてもよかったと思う。おととい書いた、チケットノルマとか箱貸し・スペース貸し、「表現機会提供サービス」のはなしも神谷さんは読んでくれていて、それも大きかったのかもしれない。ありがたいことである。でも、おとといのはかなり極端というか、ある側面だけを増幅していて、私自身はそこまでは思ってないというか、思いたくないというか、私が書いたことなのだけれど、私自身の意見というより、「思ったこと」だけをある方向に増幅させ一人歩きさせると、ああいうふうにもなる、という可能性のはなしかもしれない。おっ、B:金銭的リスクを出演者が共同で負う、について書き忘れたことがあって、リスクをチケットノルマというかたちで負うことにはメリットがある。チケットノルマを達成さえすれば現金が出ていくことはないわけで、そういう動機であっても、一生懸命お客を呼ぼうとすることには意味があるし、チケットノルマといっても「頑張ってみんなでお客を呼び合おう」というルール・共通理解としての側面が大きいみたいだし、こういうハングリーさっていうのはやはりそれなりに必要なのだと思う。見るひとを巻き込む、見るひととつくっていく、というのは、やはり必要で、そもそも商品を生産だけしても消費してくれるひとがいないと、生産−消費、創作−鑑賞、のサイクルが成り立たないわけで、とはいえ、表現してそれを誰かがみるというサイクル一般の問題というか、ひっかかるところといえば、(芸術としての)創作−鑑賞のサイクルと(経済としての)生産−消費のサイクルが、それぞれ違うものとして意識されながらも、混同されることで成り立っている、ということか。区別しつつ混同する、という。これは避けられないのかどうか。売れるものはすばらしい/すばらしいものは売れる??たまごがさきかにわとりがさきか。ただたんに、つくったものを社会のどこにどういうふうに置くか、だけのような気もする。「つくるもの」を重視するか、「置き場所」を重視するか、「置き方」を重視するか。社会的であるとか政治的であるとかいうことではなくて、そのまえに、こういうのはある気はする。個人的には、まず「置き場所」を決めさえすれば、自分なりの、それに合った「つくる(置く)もの」、それに合った「置き方」というのが、でてくるようにも思える。それと、おととい書いた、「60VISION MEETING in TOKYO」のマルニの方を招いた会の、アンケートのようなもの、「60VISIONミーティングに寄せられる質問と答え。」が、ナガオカケンメイさんの「ナガオカ日記」、2009年04月09日の分にアップされている。http://web.d-department.jp/blog/ 明日は岐阜でおこなわれる、「岐阜大学芸術フォーラム」におじゃまさせてもらう。「運河の音楽」で知り合った、野村幸弘さんのお誘いで。去年の9月にやった「時はゆく」を、これまた「運河の音楽」の打ち上げでお話させてもらってとても面白かった、時里さんというiamasの学生さん(私より10歳くらい若い!なんだか歳をとった気がする、、)とふたりで上演する予定。