以前にも見た記憶はあるのだけれど、大阪玉造のブックカフェ「beyer」のサイトが変。いい意味で。じぶんとこの所在地を示したグーグルの地図がメインのビジュアルに。http://www.beyerbooks-pl.us/ とにかく眠いのでさっさとメモ。Glimpse「Black Collection」とRicardo Villalobos「vasco」とVillalobos「Fizheuer Zieheuer」とGuillaume & The Coutu Dumonts「Face L'est」で、さんざん一ヶ月くらい前からときたまタワレコに寄る度に迷っていて、たんにどれでもいいのだけれど、ひとつしか買えない、という縛り。なぜか。で、とうとう今回はGuillaume & The Coutu Dumonts「Face L'est」になる。青木淳さんは田中功起さんとの対話(http://tenplusone.inax.co.jp/dialogue/dialogue005/dialogue5_1.html)を読んでから気になってはいたのだけれど(「原っぱ」のコンセプトとか)、昨日というか今日、糸井重里さんとの対話(http://www.1101.com/architecture/index.html)、 淵上正幸さんによるインタビュー(http://www.com-et.com/colonne/002/aoki/01.htm)を読んで、がぜん興味が増す。ところで、「ことば」と「状況・行為」との関係、という意味においては、田中功起さんと島袋道浩さんはどこか近い。と思って「田中功起 島袋道浩」でググってみたら、いぜん「田中功起」でググって出てきたの(これも面白い。http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-125.html)と同じ書き手の方のブログが出てきて、まさにその類似と違いについてすこしだけ書かれていた。http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-162.html これはとっても面白い。かなり鋭いところを突いている。「ことば」と作品としての「状況・行為」の関係付けの仕方や、そのために記録メディアを使うところまでは共通しているけれども、自分=作者がどのような立場にいるかが、このふたりではまったく違うのかもしれない(そこに「記録」の使い方の違いも出る)。「状況・行為」のなかにおいて、島袋さんはあくまで自分が当事者だが、田中さんは徹底して状況・行為、モノ・コトが当事者だ。そこが違うだけでずいぶん違うのかも。物語の主人公としての島袋さんに感情移入できないと、ぜんぜん面白くないのかもしれない(ひょっとしたら私もその部類に入るかも、、)。ひととおりこのブログのこのエントリを読んでいくと、島袋道浩さん=「すすめ電波少年」説が、けっこう説得力をもって感じられてくる。そういわれてみれば、そうともいえるような、、と自分の意見を持たない私は思ってしまうのだけれど、青木淳さんについてのメモに辿り着いていないよ。淵上正幸さんによるインタビューにおける、「動線体」について語っているところの「不均質なワンルーム」とか、「原っぱ」について語っているところの「そこであらかじめするべき目的意識の空間ではなくて、やってみたら何かやりたいことが見つかっていく空間」とか、そういう微妙な矛盾の発見が面白さなのかなと思う。「やってみたら何かやりたいことが見つかっていく空間」っていう表現が成り立つ空間そのものが矛盾しているわけで、空間を通じた行為が目的を生み出す、という因果関係でいえば逆行しているようなことがイメージされていて、これがすごく面白いし、私も体験したことがあるし、というか、そういう体験をするためにだけなにかをやっているとしか思えなくなってきた、最近は。分析的でも論理的でもなく、はっきりいって自分の経験上、これは完全に直観でしかなくて(もちろん言語を介さない、という狭い意味ではないけれど)、とりあえずは、なんというか非常にニュートラルな状態というか一種の思考停止状態にないと、「やってみたら、思いもしなかった、やりたいことが見つかっていく」というかなんというか、ものすごいスピードで変化していく状況と自分が一体化してしまって、なんだか分からないが勝手に「なるようになる」こと、とでもいうべきか、そういうことは起きない。「決まっている」と「決まっていない」のあいだ、「なにかする」と「なにもしない」のあいだ、でないとこれは起きない。なにかを考えても絶対に追い付かないスピードで変化する状況に、自分を投げ出すのが、面白いだけなのか。糸井重里さんと青木淳さんの対談の冒頭で、糸井さんが、映画と建築に関してはみんな小姑みたいにいっぱいしゃべっていて、どうにも怖くて入れなかった、ということを言っていて、ほんと私もそう。あと、建築家がなぜか好むスタンドカラーの由来とか。青木さんによると、「建築の社会は共産主義に近い」、「ほんとうは建築家は、ネクタイをしている仕事ではないのだが、ネクタイをしている人とも会わなくてはいけなくて、そのときに着る服として」、「1枚の布から、はじめの原点から考えていく、ISSEY MIYAKEに建築の人は共感を覚える」という3つの説が。あと、たとえば、住宅をつくるときにクライアントとじゅうぶんに話し合うらしいのだけれど、そういうふうに目の前の人の「気持ちよいと思う感じ」や「気持ち悪いと思う感じ」を探り、それにあわせて建築をつくっていくいく過程で、『それまで、自分が気にいらなかったデザインや気にいらなかった空間が、なんだか、気にいってくるんですね。』というのがちょっといいなあと。『自分が「これがいいぞ」と思うことをやると、「がんじがらめ」になっちゃうんです。』というのもよく分かる。自分と「自分」しかいなくなって、嫌気が差すけれど、そこに自分以外の誰かが来ない限り、ループから逃れられない、という。その誰かが建築でいうクライアントだと。ほいで、『公共建築の場合は、頼んでくださる人たちが利用者ではなくて、「誰が使うかは、あらかじめ見えていない」という意味では、住宅とはまるでちがいます。』というのはたしかにそうで、だから公共建築の場合は「理屈」になる。なぜなら、理屈でやらないかぎりは、趣味の問題になってキリがなくなるから。これはまさしくそうだ!と膝は叩かないが、それだよそれ!と思って、音楽(や芸術)がどこか公共性を帯びているような気がすることとも照らし合わせつつ、次にいくけれど、元々の私の転換点は音楽(や芸術)がもし趣味の問題なのであれば(ざっくりいえばロック好きとかテクノ好きとか、細かくいえばキリがない)、それこそキリがないし、趣味の良さを競ったり褒めあったり仲間と敵を区別したりするだけじゃないか!そんな面倒なことやってられるか!と思ったのが大元で、そしたらどうしたらいいのか、ということでやむなく「理屈」に手を染めるほかなく、いまに至っているわけで(もちろん考えてそうなっているわけではなく、流れで、、)、といっても、それはそれで別のキリのなさがあって、理屈の趣味の良さを競ったり褒めあったり仲間と敵を区別したりすることになり(そう感じる自分にも)ほんとにうんざりなので、青木さんが言うように『理屈を説明するフリをしながら、感情を刺激する』というか、理屈のフリをした理屈じゃないもの、を目指すことになる。なので、いままで、「論理的な整合性」と「整合性を崩すがその後なにが起こるか分からないこと」のどちらを選ぶかの判断では常に後者を選んできた。選ぶときはそれこそそんな二択の意識なく、ただなんとなくだけど。あとから思えばそうだった、というだけで。流されているだけ、ともいえる。自然にだんだん秩序が崩れるのに逆らわない、というか、逆らうだけのエネルギーがないのかもしれない。