ネットで、このハンドルネームというかこの名前というか、とにかくこの表記のひとは私の知っているあの人だ、と思っていた人がどうやらぜんぜん別人のようだ。それはそれでよいけども。過去の日記でデカルトについてなにを書いたかなと思い、歩きながら思い出してみるに、たぶん、真らしくみえるだけのものはいちおうすべて虚偽と見なした、とかそういうことだったような。「方法序説」の。「運河の音楽」ですが、水上の観客、大募集!とのことで、レガッタに乗りながら鑑賞することができるらしく、募集中とのこと。http://d.hatena.ne.jp/riinumata/20090312/1236861475 このまえ私もレガッタ乗ったのですが、とりあえず、乗るだけでもかなり楽しい。キャナルレガッタ神戸の方がサポートしてくれるので、初心者でも乗れます。だんだんコツをつかんでくるのよね。今日は野村幸弘さんと二回目のおはなしあい。といっても、選挙運動中の政治家のごとく忙しい幸弘さんと「運河の音楽」運営スタッフのみなさんの、用事のあいまにおはなし。主に、カセット配布とは別件のパフォーマンス、ストップ目覚まし時計について。いつのまにか私の知らないところで呼び名ができている。知らないところでいつのまにか、って面白い。行為とか概念だけが暴走しているようで、面白い。だんだん自分の考えたことじゃなくなっていくのが、とても面白い。共有財産みたい。いや、財産っていうのは言い過ぎか。共有のアイデアというか。こういうのも、コラボレーションっていうのかもしれない。ストップ目覚まし時計は、いまのところ2回やっていて、一昨年の夏に東京のループラインでASUNAこと嵐君と直嶋君とのトリオでやったのと、今年の1月のポコペンでひとりでやったのと。1回目と2回目では、やることは変わってないし、どういうつもりでやるかも変わってないけど、共演者の有無ややる場所の違い、イベントの文脈の違い、受け取られ方の違い、などなどによって、かなりの違いが出た。これはとても面白いことだ。3回目もいままでとはぜんぜん別のものになる、たぶん。幸弘さんが考えてくれた置き場所(文脈)に置いてみることで、まったく違った意味が出てくるだろうに。たんに、目覚まし時計を鳴るようにしといて、鳴ったら止める、っていうだけなのに。それはそうと、同じことは二度とやらないと決めていたはずだけれど、ストップ目覚まし時計は三度もやってしまうことになるな。あとなぜゆえ幸弘さんと「運河の音楽」運営スタッフのみなさんが選挙運動中の政治家とその秘書のごとく忙しいかというと、出演者がかなり多いし、地元の方々が多いので、そのリハーサルやら打ち合わせやら。分刻みのスケジュール。っぽい。幸弘さんが他のところに行っているあいだ、神戸ウイングスタジアムやったかな、そんな感じの名前のスタジアムが運河の近所にはあって、Mさん、Tさんとともにそこを一周する。杉田敦「デモクラシーの論じ方―論争の政治」は昨日のお風呂で読了。AとBとの架空の討論方式。郡司ペギオ-幸夫さんの「生きていることの科学」もそういう形式だけれど、この形式のいいところは、Aとしての自分が書いたことに、すぐさまBとしてつっこむことができる、ということで、これはかなり大きい。ふつう、「私」でも「僕」でもなんでもいいけど、ひとりしか語り手がいないモノローグ形式の場合、論理の流れを維持しつつ、自分の言ったことに自分でつっこむのはけっこう難しくて、論理の流れをいったんひとまとまりのものとして提示したあとに、「しかし」でもなんでもいいけどそういうので繋いで、さらに反転していかないといけなくて、これがけっこう難しい。どうしてもつっこむ対象とつっこみとのあいだにタイムラグというか物理的な距離が生じる。AとBというふたりの語り手がいると、ある程度は論理の流れが切れてしまうのも当たり前になるので、そのへんを気にしなくてよくなる。といっても、ふだんそんなこと気にもしてないけれど。内容によっては語り手の交代なしで、すぐさまつっこむこともできる。でも、それなりに論理の流れが重要な内容を語るときに、あまりに頻繁にひとりの語り手の自問自答が続くのでは、読む方もうっとうしいだろう。だから、いままさに書いているこれは、たぶんかなりうっとうしいと思う。ちょっと前にときどき、AとBとCの架空の討論方式で書いていたけれど、3人いるとまたちょっと分裂して面白い。4人いると、たぶん、ただ多いだけ、になる。ひさしぶりにブログ通信簿をやってみると、ブログ性別−女性、ブログ年齢−40歳。主張度4、気楽度3、マメ度3、影響度3で、通信欄に『あなたは「文化祭実行委員」タイプです。自分の意見がしっかりしてます。よく話題にしている温泉の知識や経験をいかして、詩人を目指しましょう。』とのこと。どれひとつ思い当たるフシがない。。かろうじて温泉くらいか。文化祭実行委員なんてやったことないし、務まるとも思えない。昨日はあかつき書房にて、ジャック・ラカンテレヴィジオン」を1000円で買ったのは、ちょっと前に、「松岡正剛の千夜千冊」でとりあげられているのを読んで興味を持ったから、というのと、ラカン本人のテキストを読んだことがないから。でも、やはり、なんていうか、語り口が変なので、分かりにくい、というと正確ではなくて、分かりにくいと言ってしまうと分かるべき単一のなにかがあることになってしまうからだけれど、なんだろうなあ、とにかく変。おもしろいっちゃあおもしろいけど。なぜ人間が、いま現在たくさんのもの、それも優れたものがあるのに、あたらしいものを作り出し続けるのか、ということをずっと疑問に思っているのだけれど、なんというか、まずひとつに「人間は飽きる」っていうことがあり、ふたつめに「人間は死ぬ」っていうことと「ものは壊れる」っていうことがあるんじゃないかと、めちゃくちゃ単純なことだけれど、思った、今日、というか昨日から今日にかけて。「人間は死ぬ」と「ものは壊れる」についてひとつにまとめているのは、どちらも「いつかはなくなる」っていう意味において同じだから。いま現在、日々あらたなものが生み出されるのを、進歩や進化において捉えるのはちょっとむずかしくなっている気がする。「歴史」というものの捉え方の問題かもしれない。生産という名の再生産を進歩と捉えるか循環と捉えるか。「再」ではない生産がありうるのか。もういっこ「MyBoo」というのを発見したのでやってみる。『おいしい!と感じていること がブログからにじみ出ています。話題に関しては 政治 について多く書かれているみたいです。』とのこと。その他の感情としては「感動の様子」と「疲労感」とのこと。その他の話題としては「本」と「ラーメン」。「感動の様子」と「疲労感」ってすごいな。なんだこの組合せ。当たってる気はするけれども。感動もまた疲労なり。疲労もまた感動なり。