Do Make Say Think「You, You’re A History In Rust」をヘッドフォンで聴いていたら、こんなんやったかなと思う。2年前のやつだけれど、でもこんなんやったような、というか、こんなんだ。また、解釈可能性についての芸術行為の場合でも、そもそもの目的が「解釈可能性」を現出させるというものだとしても、それが「意図」として対象化されてしまい、「解釈可能性を現出させる」という意図を伝えるために芸術行為がなされてしまうと、お仕着せの「解釈可能性」が一方的に与えられるだけになってしまう。いろんな解釈ができるようにつくりました、さあご自由に解釈しなさい、というような。こういうのは無茶振りとしかいいようがない。ある現実の環境・状況・空間として解釈可能性が現われることはあんまりない。抽象的な論理の空間として現われるのがせいぜいのようだ。それが原理的な限界なのか、いまのところの限界なのかは分からないけれど。でも、「突き放す」のは重要で、近寄り過ぎると、自分で動いて目的をつくっていくことをしなくなるし、「意図」や「目的」を先取りする思考様式から出られない。だからむずかしいのはどう「突き放す」かで、その突き放し方が問題だ。説明するかどうか、どう説明するか、という問題ではなくて、ぜんたいとしてどう見えるか、体験する人にとってどういうふうに現われるか、の問題だと思う。言語で説明しなくても、その他の要素で雄弁に語ってしまってうまく突き放せてないこともあるだろうし、逆に言語で説明したとしてもやりかたによってはうまいぐあいに突き放せることがあるように思う。なので、言語で説明するか否かは問題ではなくて、作品それ自体や作品の置かれる文脈や言語での説明なんかのもろもろを含む、広い意味での「見え」、物理的な見え、抽象的な(意味としての)見え、を広い視野でトータルに整理しないといけない気がする。気はするけれど、そんなんできるのかというと、なかなかできない気がする。簡単にいうと、突き放そうと思って突き放しても突き放せないし(突き放そうとしているんだなと思われるだけで)、結果として突き放すにはどうしたらいいかということ?今回の日記は過去に書いて放置していた文章に加筆しつつ進んでいて、いま、ここで言っている「見え」っていうのは、たぶん、青木淳さんが言う意味での「装飾」に近いと思う。どういう「つもり」かとかどういう「意味」か、っていうよりも、ただどう「見えるか」、どう「在るか」だけが問題で、つまるところ、「本質」なるものを、もうこれっぽっちも相手にしないということでもある。野村幸弘さんのお誘いにより先日、4月やったかな、参加させていただいた岐阜大学芸術フォーラムにていろいろとおはなしさせていただいた、作曲家・編曲家・クラリネット奏者、坂野嘉彦さんのブログ(http://blog.goo.ne.jp/bashihiko/)の「JMU中部マンドリンフェスティバルで」というエントリ(http://blog.goo.ne.jp/bashihiko/e/c85151947e7003205b1ee9930874bebe)より。

 アマチュア合奏団を運営されている人の特徴としてだいたい共通しているのが批評(特に批判)の拒否だ。誰にだって多かれ少なかれこれはある。仕事や家庭の用事の合間の、ほんとうに貴重な余暇を、批評に怯えながら過ごすものではない。だいたいそんなのは楽しくない。しかし、音楽を、しかも人前で演奏するという事は、楽しい反面、多少の緊張(思考)を必要とするものだ。苦労して作った時間で演奏する音楽ならば、良い内容にしなければその「甲斐」がない。そして、良い音楽のためには批評、思考、考察、緊張は重要な要因だと僕は思う。音楽は「間違えずに弾く」「楽しく歌う」という事だけでは相手は聴いてくれないし、たとえ大人が我慢して聴いてくれたとしても伝わらないと思う。

自分のやることのなかから、「間違えずに弾く」「楽しく歌う」ということを形式的に徹底的になくしていきたい、というようなところが私にはあって、すくなくとも演奏・上演が難しいことはやらないし(それだけに気をとられるから)、演奏・上演することじたいが楽しいこともやらない(それだけに気をとられるから)。でも別にこれはストイックであることを求めているわけではなくて、いわゆる具体的な準備や練習に時間を割くのではなく、なにかをやる「まえ」と「あと」の考えごとに時間を割きたいからだと思う。いったいなにを観客にみせるのか、ということでもあるのかもしれない。私はいったいなにをみせているのだろう。私のやることをみるだれかにとって、私のやることはどのような要因というかどのような環境であるのだろう。http://d.hatena.ne.jp/k11/20090415で書いたことが一人歩きしていて、たしかに一人歩きしやすい内容ではあって、『「自分はなぜこれをやるのか」という問いから逃げて、「やる楽しさ」だけに閉じ篭っているようにしかみえない。』と書いたけれど、これだけみると、よくある「プロ/アマチュアの違い」みたいなことというか、よくある「表現するということに意識的かどうか」みたいなことを語っているようにもみえるけれど、そういうときの「意識的」ってなんなんだよ、というのもよく思う。ある表現が「表現するということに意識的かどうか」なんて、どうやって判定したらいいのだろう。自分が「意識的である」と思う表現ないしは表現者と比べるほかない。でもこういう場合、比較対象の選び方や比較の仕方そのものがほとんど問われないことを思えば、どうしたってそれは個人的な主観に基づく判断であって、客観的な判断とはとうていいいがたい。他人のやることにうだうだ文句を言う人が意識的かというとぜんぜんそうではないだろうし。あ、でもひとつ基準があるかもしれなくて、あくまで個人的なものだけれど、「人にかまってもらいたい」という気持ちとか承認欲が前面に出ている表現に関わりあうのは、ものすごく面倒で、ものすごく疲れる。だから、こういうタイプの作品との出会いは、正直なところなるべく避けたい。これはたぶんアマ/プロ、意識的か否か、というのはまったく無関係で、どっちかというと作者の個人的な欲望が作品という枠を超えて漏れ出ていることに原因がある。そういえば、大学のときの友人のひとりに、ものすごく他人に依存するやつがいて、連絡もなしに急にピンポーンとやってきて、バイトまでの時間潰しに来た、とか、家に来たら来たでなにをするでもなくずーっといるし、なんというか、とにかく独りが嫌なのだろう。誰でもいいからかまってくれ、という、相手のことお構いなしの態度が、ほんとうに嫌で、いつも相手するのもしんどいし、電話に出なかったりすこし距離を置いていたら、なんとなく去っていってしまった。今となっては、かわいそうなことしたかなとも思わないこともないが、とにかくこちらの都合なんかお構いなしなので、申し訳ないけれど、神様でもないかぎり、そんな人と付き合いつづけることは難しいだろう。溢れるほどの愛なんて私にはない。というか、人間ひとりひとりがどこまでも独りぼっちだというのは、受け入れるべきものでも、悲しむべきことでもなく、ただの事実であって、それ以上でも以下でもない。というのも、昨日ぐうぜんJuanRomanYoshidaさんという人のことばを発見したからで、JuanRomanYoshidaさんという人のtwitter(http://twitter.com/juanroman_/status/2165480832)より。

完成度を伴わないパーソナルな作品はサブカルくさいだけで面白くないと思う。芸術というか表現って社会や世界との接続の方法だと思うし、圧倒的な表現力というか完成度があればパーソナルな世界もそれだけで外と接続できると思うけど。クオリティ足りてないとただのかまってちゃんでしかない。

たしかにそうかもしれない。「クオリティ」っていうのはかなり曖昧なだけに危険なことばだけれど、「かまってほしいんだな」ってことしか伝わらないものってたしかにあって、いちおう求められればそれなりに応えるのが礼儀だと思い、多少は応えるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。だから、私にとってそういう表現は、あってもなくてもよいもので、そういう意味で別にあってもよいかなと思うくらいで、もちろん個人的には必要とはしない。だって、いちいちかまってあげないといけないんでしょ。めんどくさいやろ、そんなの。表現に限らず、ベタベタしたかまいあいなんてしたくないし、求めてもいない。もちろん「かまってもらいたい」っていう気持ち自体は理解できるし、私にそれがないわけでもないけど、そんなにやたらに拡大していってよい欲望でもないと、私は、思うけど。よなさんに、ある企画のためのテキストを送る。姉ちゃんがバリから帰ってくる。いろいろおみやげを買いすぎて荷物が多いらしく、近所のコンビニまで迎えに行く。コンビニまではタクシーで来たのだろうか。バリコーヒーとかなんかの置物とかビーズのポーチとかせっけんとかなんだかよくわからない楽器とか。昼寝をしているときに部屋にやってきてなにかをがちゃっと置いていった気配は感じていて、なにかおみやげ置いていったなと思っていたら、そのおみやげが夢に出てきて、風鈴のような鐘のようなかたちで上部に指を通す取っ手があり、そこに指を通して持って左右に振ったり回したりすると甲高い音が鳴る楽器だった。でも実際には、なんだかわからない木の実がたくさん棒についたガラガラいう楽器と3cm×10cmくらいの板がたくさん糸で結び付けられていて、両端の板についた棒(猫のかたち)を持ってジャクジャクいわせる楽器と、カリンバだった。姉ちゃんはバリで、私にそっくりなちびっこを見つけ、一緒にいった友人と騒いでいたら、ガイドの人が、あの人の弟に君が似ているらしい。写真を撮らせてあげてくれ。と伝えてくれて、写真を撮ってきていた。お礼に、1000ルピア、やったかな、渡すべし、とガイドの人に言われ渡した。