タルドは「模倣の法則」について、物理的法則と社会的法則を区別し、ひとまず社会学的法則だけを相手にすることにしたらしい。そしてその社会学的法則を、論理的原因と非(超)論理的原因とに分ける。論理的原因とは、人びとのあいだでさまざまなモデルが比較され条件や目的に合ったものが模倣されるということらしい。そして非(超)論理的原因について、3つ挙げている。1、模倣は内部から外部へと進む。2、模倣は上層から下層へと進む。3、上層であることの根拠が過去に求められる場合と現在に求められる場合がある。過去は慣習、現在は流行。「1、模倣は内部から外部へと進む」についての部分を引用。池田祥英「タルド社会学への招待―模倣・犯罪・メディア」第2章「模倣の社会学理論」より。

一般には、外部の表層的なものを先に模倣して、奥深い内面を模倣するのはその後ではないかと考えられることが多いが、タルドはそのようには考えない。歴史的に見ると、十六世紀にスペインのファッションがフランスにおいて流行したが、それは以前からスペインの強力な支配権を背景として、スペインの文学がフランスに広まっていたからだとタルドは考える。このように、外面に表れるものを模倣する場合は、その前にそれを受け入れる心の準備ができていなければならない。より正確にいえば、1・思想の模倣は表現の模倣に先行しており、2・目的の模倣は手段の模倣に先行する、ということができる。

手段や表現の模倣を通して目的や思想も模倣していると思っていたけれど、こう見ると、たしかに目的や思想の方が先行しているのかもと思った。形から入る、とかよく言うけど、形から入るためにはその形が自分の目的に適切であることをあらかじめ知っていなければならない。つまり目的を模倣している。  えーと、なんていうのか、前回引用したフィッシュの本とかエーコの「開かれた作品」とか、そういうのをとりまとめてなんていうのかちょっと分からない、文芸評論??と思って、解釈の理論みたいなことなのだけれど、調べてみたらまあざばっと受容理論とか受容美学とかいうっぽい。まずはじめに解釈ありきだと思うので、解釈の対象ありきで解釈がはじまるのではないということなのだけれど、解釈の対象の創造もまた解釈に基づくだろうということなのだけれど、なので理解したり解釈したり読んだりするというのはどういうことか、ということにはとても興味がある。ほいで、そういう本を読んだり見つけたりする度にああまずいなーと思うのは、そういう受容の理論抜きでわりとなにかつくったりやったりしていることの方が多いんじゃないかな自分も含めてみんな、と思うからで、もちろん受容の理論っていうのは、欲望をピンポイントで刺激するための方法論とはちょっと違う。そういえば一昨日やったかフィッシュについて検索しながらネットをさまよっていたら「信頼できない語り手」理論というのにたどり着いて(ウェイン・ブースっていう人が言ったらしい)→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E8%AA%9E%E3%82%8A%E6%89%8B ほうほうと思う。