髪が伸びてきて、それもここさいきん加速度的に、加速度的って字義通り考えると意味がよくわからない。〜的っていうのはいいとして、加速度っていうことばが、だんだん加速しているようだ、という意味なのかどうか。違うような気もする。「加速度的」で検索すると同じような違和感を持つひとがやはりいた。髪が伸びたので、レミオロメンみたいと姉ちゃんと妹に言われたので、もともとアシンメトリーな前髪が伸びるとレミオロメンなのか。レミオロメンといえば、AUのCMで「さーくら あー さーくら あー のはな がーさいて せーかーいがきみーをー やさしくつつーみ こんでえー いったーよ」という曲をよく聴くが、「さーくら あー さーくら あー」で1回切れて「のはな がーさいて」と来るところで、えっ、そこで切れるの?!といつも思う。いまのここの部分を書くためにyoutubeで何度かレミオロメンの「sakura」を聴いた。サビの部分を念入りに。いま「シュガーベイブ」で検索してみると、けっこう出てくる。まえはなかったのに。映像じゃなくて、音だけだけど、ライブ音源は初めて聴くな。32年前。いまおもに読んでいるのは、電車のなかとかで読んでいるのは、持ち運びが楽という理由で文庫か新書かそれに近いサイズになるけれど、実家にあったのを持ってきた加藤秀俊「企画の技法」。事務所の棚とか父ちゃんのベッドのよこの棚とかいろんな棚に三冊くらいある、この本。なぜだろうか。買ってはなくし、買ってはなくし、したのだろうか。うちの親父が。なんでも「企画」といえば企画、たしかに。あとブックオフオンラインで、柏木博「デザインの20世紀」、「世界デザイン史 カラ−版」、「西洋建築様式史 カラ−版」、郡司ペギオ−幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」を代引きで。けっこう検索してみるといろいろ中古であるのが発見。郡司ペギオ−幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」の1章をさっき読み終えたけれど、やはり面白そうだ。この人は意外に、といっては失礼かもしれないけれど(内容が難しいだけにそう思える)、文章がうまい気がする。この本を読んだひとの感想をネットでちょっと見ていたら、マクタガートA系列、B系列、という考えで、わりとさいきん広範に見かける、現在(のひろがり)としての「わたし」と歴史(のさきっぽ)としての「わたし」の乖離(それはそもそも混じり合わない?)、および、現在としての「わたし」だけを肥大させること、について理解が深まるかもしれないし、深まらないかもしれない。ひょっとしたら、意図的に歴史を軽視しているわけではなくて、現在を過度に重視しているだけなのかもしれない。アートに、客観的な価値、三人称的な価値ではなくて、主観的な価値しか求められていないのも、それと関係があるかもしれない。「わたし」がつくるのが重要で、「わたし」がみるのが重要、という。とにかく「わたし」。とはいえ、客観的な価値、三人称的な価値っていうのも、ある範囲での主観的な価値の不当な一般化、といえなくもないので、こういう傾向にもそれなりの理由があるのだろう。あとはまあ、ことばは悪いけど、実社会での自己実現に挫折して(ないしは排除されて)、アートに自己実現を求める、っていう傾向もある。でも、これも反転させれば、アートでの自己実現を通して社会との接点をつくっていく、という作業に繋がるので、ネガティブに捉える必要はない。松野孝一郎「内部観測とはなにか」の序章に、

 われわれは何かを読んだり、聞いたりするとき、関心がある限り、それに一言つけ加えたくなる。この文を書きつつある私も例外ではない。一言つけ加えるには、先ず案件を特定し、それへの説明から始める。対象とする案件の設定には他ならぬその案件を特定する、という操作が前提になる。これが観測である。説明は答えを与えるが、問題までも与えることをしない。問題案件を与えるのがこの観測である。

という一節があって、かつて引用したこともあるけれどhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20071109、こういうつけ加え、つまり、刺激への反応というものが、いったいなにに根ざしているのか、というのも、この前書いた『なぜ人間が、いま現在たくさんのもの、それも優れたものがあるのに、あたらしいものを作り出し続けるのか』という疑問に関係がある。模倣子=ミーム、という考えもどこかで関係あるかもしれない。といっても、私がこういう疑問を抱くのは、刺激への反応が、つけ加えならまだしも、刺激への同一化の次元(カバーバンドとか?)に留まってしまうのであれば、これはどこか不毛ではなかろうかと思うわけで(厳密な分類は不可能だけれど)、とはいえ、それもまた「喜び」であり生きる糧なのであれば(実際そうだけど)、否定する必要はなくて、というか、他人への思いやりとして誰も否定なんかできない、ということだけれど、それとは別に、つけ加えか同一化か、という区別が生じるのは結果だけを相手にしているからで、その過程・プロセスへの意識が抜けているから。またはプロ/アマというかたちで歴史/個人の対立・区別を安易に前提にしてしまっているから。物事には、やった結果が大事なのではなくて、やることに意義がある、ということもある。もちろん「自分が」やることに、意義がある。「誰か」じゃなくて。けれど、その物事の性質によっては、「(自分が)やることに意義がある」っていうのが逃げ場所・言い訳になってしまいかねないので、そこはやはり問題になるところ。草野球で見物料なんかとらないし、そもそも見られることを意識さえしないものだろうけれど、こと芸術においてはそのへんの混同がよく生じる。(自分が)やることに意義があることを他人に見せる、とはどういうことか。「(見てくれて)ありがとうございました」で済む問題なのか。「「わたし」を見てくれてありがとう」なのか。そもそも「ありがとう」とかいう問題なのか。なぜ見て欲しいのか。それはそうと、梅田の紀伊国屋書店で、「円周率1000000桁表」という冊子と「オイラー定数100万桁表」という冊子が、物理学かなんかのところに平積みになっていて、おもしろいな、とおもう。表紙には、暗黒通信団、と書いてある。著者はこの「団」所属の(?)ひとで、前者が牧野貴樹、後者が真実のみを記述する会。真実のみを記述する会って。すごいな。それはそうと、直嶋平間竹内小田コンピとは別件のコンピのための音源について考えたり作業してみたりしているけれど、去年からときどき思い出したらやっているけれど、コンピのカラーというか空気を読むのならば、結局は3,4年くらいまえにできた(つくった、というより)ファイルとかの方がよいのだろうなと思う。締め切りがわかんないので、思い出したらときどき、になっていて、それならいっそそのむかしのファイルを送った方がよいのでは、と思ってきた。それはそうと、直嶋君のアルバムが出ていた。「I’ll keep it with mine」という作品。直嶋君のレーベルencadreより。http://www.geocities.com/tanzaque/ 二枚組。