ひさしぶりに武雄温泉へ。元湯が工事中なので、蓬莱の湯。ここはむかし行ったことがあるらしいが、記憶にないので、はじめてということになるのか。行ったら思い出すかと思っていたけど、思い出さない。蓬莱の湯もどこかしら工事したらしい。脱衣場の板がきれいになっているとか。脱衣場に入ると、すぐにやまださんの声が聞こえる。常連のやまださん。熱いお湯が好きなので、やまださんが来ると湯の温度が上がる。まずは頭、身体を洗う。そして湯船へ。ものすごく熱い。元湯のあつ湯か、っていうくらい熱い。なんかいまパフュームが出てる番組がやっている。なんでバンドマンはもてるのか、という話題。ギターケース持って、スキニージーンズで先が尖ったくつで、タイトな上着・・・???高円寺に住んでる・・・???DAIGOさんみたいな感じか???パフュームの3人もバンドマンは好きらしい。女の子の思うベタなかっこつけかただから、というのはかしゆかの意見。なんでバンドマンはもてるのか、というか、バンドマンってもてるの??DAIGOさんはかっこつけるのも嫌味じゃなくてなんだか育ちの良さも醸し出しつつ、こういう感じだったらもてるかもしれないけれど、ふつうのバンドマンにこんな人は絶対いないだろ。どうでもいいけど、付き合うならバンドマンでも結婚まではせんよね、たぶん。一般に言われているとおり、ほとんどの女の子ってほんと現実的だから。アクセサリーとしてならバンドマンがいい、みたいな感じなのか???私が熱すぎるお風呂から退避するべく浴槽のへりに座っていると、やまださんの洗いが終わり、やまださんも浴槽へ。はしっこから入ってはしっこまで歩いていく。おっ、やまださん、背中にまだ泡が!やまださんが入っていた側に座っている人がこっちを向いているのであの人にも背中の泡は見えているはず。やまださん、うしろ、うしろ。とは誰も言わない、というか、言えないのか。ざばーっと肩までつかるやまださん。なんとなく、手遅れになることで安心する。言うか言わざるべきか、言えないくせに悩む必要がなくなる。こういうどうでもいいことを書くのは昨日書いたことはなんなんだと思うからで、とりあえず今日のを書くことで昨日のは過去の日記になる。押し流そうという。「雪かき仕事」についてはちょっと違うかもしれない。いや、昨日書いた「雪かき仕事」については、そんなに違わないかもしれない。自己犠牲としての「雪かき仕事」が気持ちいいのは分かるし、自己犠牲にでもしないと「雪かき仕事」ができないのも。でも犠牲になる方の気持ちよさを抜いた自己犠牲の方が相手は楽だよね。ついつい、おれがやってあげたぞ、って言いたくなるもんな。。でなくとも、思っちゃうしな。いや、自己犠牲それ自体がうさんくさいのではなくて、そのやりかたが場合によってはうさんくさくなるのか。あと(いままではまったく関係ないけれども)、自己欺瞞=自分で自分を欺くことが「自我」のかたち・構造をなしている、っていうのは、ああ、それはそうかもしれないと思うけれど、もう一方で、それをあえて「言う・書く」ことはなんなんだ、だからなんなんだ、マイルス・デイビスの曲に、「So What」っていうのがあるのをいつも思い出すが、だからなんだってんだ、とも思う。なんだかわからないが「自己欺瞞、すなわち、自我だ」って言うときの、それを言う当の主体は、自己欺瞞してないことになるというか、「言う・書く」っていうとき、言う対象とそれを言う自分自身は別の階層というか次元に分かれてしまうので、言う自分自身については問われなくなる。「自己欺瞞、すなわち、自我だ」と自我を対象になにか言うとき、その発話主体は対象と同じではない。なので、発話主体は(構造的に?)対象の外に出て行くことになる。ということは、外に出る=いっときの自己欺瞞すなわち自我からの解放、を目的に、自我を対象になにか言う、なんてことも起きるわけで(=自己欺瞞?)、それはいま書きつつあるこれについても同じ。二重に出てるだけだから。でもいったん言われている対象の次元を抜け出て、だからなに?(なんでそれをあなたがわたしに言わないといけないの?)と言うとき、今度はそれを言う主体が問題になる次元に変わる。で、これはたぶんどこまでも続けていける。ふだん、こういうのが起きないのは、たんに、だからなに?とまでは問わないからで、それぞれみんなの思いやり。