3/25、26、27、28に書いたことをちょっと整理したいような気にもなるけれど、とりあえずそれはおいておいて、ここ(http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/Study/index.html)にある、北川裕二さんの「革命を俟つ櫛の方へ ── <創造-鑑賞過程>のマルセル・デュシャン」というテキストを読んで、あらためて、「フィールド・レコーディング(というより録音することそのもの)」と「レディ・メイド」の関連性についてぼんやりとお風呂で考えた、昨日。1.「選択」における、視覚的無関心と聴覚的無関心、および、録音機器における聴覚的フォーカスの欠如。2.「レディ・メイド」による「選択」はあるひとつのモノを選び出すということで、それゆえ「選択」されるモノの個数、正確にいえば「選択」の回数が意識的に制限されるのに対し、「フィールド・レコーディング(というより録音することそのもの)」は、複製技術を前提にしていることからも分かるように、あらゆる録音内容がフラットに併置されてしまうため、というよりも、可能な「選択」と実現された「選択」が複製技術そのものの内部で併置されてしまうため、「選択」の回数を意識的に制限することが意味をなさないっぽい。これはどういう事態だろうか。3.同じく、複製技術を前提にした「写真」と「録音」それぞれの「レディ・メイド」との距離。もし写真が、ある状況を[一瞬]という形式で(視覚的に)[要約]するにとどまるならば、それは「レディ・メイド」とは限りなく遠い。そういう意味で、[持続]という形式しか持ちえず、状況の[要約]ができない「録音」はちょっとだけ「レディ・メイド」に近いっぽい。あまり変わらないけど。視覚と聴覚の違い、目と耳の違い、人間はどちらにより多く依存しているかの違い?4.「レディ・メイド」についてもっと理解を深めたらもうすこし突っ込んだ思考ができるよなあ。あと、平間君の

場所の音場所特有の音みたいな事が希薄になっていて、音と何かの関係をただ録音しただけというか、音がなっていようがなってなかろうが、といっても音が鳴ってない場面なんて無いという思い込みがそうしてしまうのかとも思うがどちらにしろ録音はするだろう、録音してしまえぇ。といった気合いといってもポケットに手を入れてボタンを押すだけなのでなんの気もいらないのだが、関係というかなんだろう、例えばカイワレ大根が腐っていて冷蔵庫を開けた瞬間腐乱集が鼻を突いてきた。臭ぇー!録音しよう。とかそういう事だ。

ということばも関係ある。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080327 あと、昨日読み終えた、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」第四章「古代史再発見-回帰する時間の哲学-」の信条(心情?)倫理/責任倫理のくだりのところで、ずっと前の姉ちゃんとの会話を思い出して、姉ちゃんの友達がマルチ商法(連鎖販売取引)をやっているらしく、マルチ商法のピラミッド構造の自分より下の人たちの犠牲の上に自分より上の人たちが成り立っているんじゃないの?というはなしから、たとえば、自分が誰かをマルチ商法に引き入れたとして、もしその誰かが不当な不利益を被った場合に、その責任を負うべきかどうかのはなしになって、姉ちゃんは、紹介したのは自分だけれども、その誰かは自由意志によって参加したのであって責任を負う必要はない、という立場で、私は、そもそも紹介したという選択肢の提示それ自体にも責任があるのでは?アフターケアとかしなくていいの?という立場で、もちろんこのふたつは相容れないのだけれど、この感じが信条倫理と責任倫理の相容れなさと似ていて、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」第四章「古代史再発見-回帰する時間の哲学-」より

信条倫理家は、社会秩序の不正に対する抗議において、決して妥協することがありません。彼等は純粋に自己の信条そのものにもとづいて行為するのであって、それ以外になんら配慮する必要はない、と考えているのです。自分の行為が結果として思わしくなくても、その責任は自分にあるのではない、責任は世間の愚かな人間たちのほうに、あるいは「こういう人間を創った神の意志の方にある」と考えるのです。<中略>責任倫理家は、人間の平均的な欠陥のあれこれを計算にいれて行為するのであって、「人間の善性と完全性を前提してかかる権利はなく、自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできない」と考えるのです。

自己の信条にもとづいて「よかれと思って」なされた行為に責任を負う必要がない、というのはどうも納得がいかない。やっぱりなにかを純粋に信仰する場合にこういうことが起こるような。で、姉ちゃんがいっているのはおそらく、極端なかたちの「自己責任」、なんでもかんでも「自己責任」ということで、きっかけを与えただけであとは知らん、というのはどうも他人への配慮を欠いているような。世の中の全員が信条倫理家になってしまったあとの考えかたというか。自分は自分の信条にもとづいて行為している!自分がそうだからあいつも自分の信条にもとづいて行為しているはずだ!人それぞれだから他の人のことは知らん!という。それがなぜか「自己責任」というふうに言い換えられているような。あと同じく昨日読み終えたドフトエフスキー「悪霊」の巻末に、「悪霊」が発表される際に出版社かなんかの都合でカットされた、チホン僧正とスタヴローギンの会話がついていて、確かにこれがあるとないとでは、読者に与えるスタヴローギン像がぜんぜん違うものになってしまうなあ、と思って、その最後のあたりで、チホン僧正が、スタヴローギンに向かって、あなたはその文書を公表しないためにもうひとつの方法を必ずやとるでしょう!というようなことを言っていて、その文書というのは、いままでの悪行についてスタヴローギン自身によって書かれ印刷されたものなのだけれど、それらのエピソードそれぞれが誇張されている、とチホン僧正が指摘するのも分かるし、それを誇張せざるをえなかったスタヴローギンと、書いて印刷までしたはいいものの結局は公表せず、というか公表しないためにこそ自殺を選ぶ(というより自殺せざるをえない状況に自分を追い込むために文書を書いて印刷した、つまり文書と自殺は相互に原因であり結果でもある。あくまでも相互に。)スタヴローギンのずるさがよく理解できるので、けっこう悲しくなる。自殺の際にその文書をどうしたかは、ぜんぜん書いてなくて、もちろんそういう文書についてのくだり自体がそもそも本文からはカットされているので当たり前なのだけれど、おそらくスタヴローギンならば、あえて死後にその文書が見つかるようにしたかもしれない。それによっていろいろな人々が傷付くだろうけれど、最終的には自分が赦されることを知りながら(ふつう死人にむち打つことはしない)、死んでいくことが最後の喜びだったかもしれない。そうじゃないかもしれない。浅田彰「構造と力」は読みはじめてみたら、非常に明快で分かりやすい。なんか「point」以降のコーネリアス(の音楽)を思い出す。それまでの関連するあらゆる音楽の成果を総括しつつかつ「コーネリアス」の音楽として提出する手際の良さとか。べつに「point」以降でなくてもいいのかもしれなくて、「point」以降からそういう感じを私が持ちはじめたというだけで。