今日はぐっさんちに行ってちょっとマックを借りて、電車に乗る前にマクドに寄ったけれど、タダで(お試しに?)もらえるらしいコーヒーをぐっさんはもらえて、私はもらえなくて、なぜかマックポークのみを食べるはめになって、マッキントッシュを借りて、backup3をインストールしてidiskに繋いでいろいろやってみたがぜんぜんbackupが圧縮してサーバーに上げてくれたデータを復元できなくて、なんとなく、backup3をインストールしてそれをアップしたコンピュータでデータ復元することを前提にしてあるようで、ウェブの説明にもそういう前提での説明しかなくて、あるひとつのbackup3のインストールしてあるコンピュータでidiskにバックアップしたデータを、別のbackup3のインストールしてあるコンピュータで復元することができないのか、ということはこのあと、アップルストア心斎橋Genius BarにいるMacジーニアスに訊いても、さっぱり分からないらしく、ジーニアスに分からないことが私たちに分かるわけもなく、1時間くらいジーニアスと差し向いで分かりませんねえ…、できないですかねえ…、などと試行錯誤したあげく、ジーニアスはidiskからbackup3ファイルをローカルに落としてきて、直接OSで強引にひとつづつ展開するという方法を編み出して、もうその方法しかないようで、いまさっきサーバーにあるファイルをそのやり方で展開してみたが、max/mspのパッチはまったくなし、テキストファイルはだいぶ前のとごく最近のもののみ、1割くらいしか残っていないという感じで、どうもbackup3がちゃんとアップしてないのか途中で変な感じになってしまったのか、分からないが、とにかくこれ以上のデータはないようで、まあパッチはどうでもいいけど、といってもよくよく考えればけっこう面白くできたパッチもあったのでわりともったいないが、あとは壊れる前日に徹夜で書いたテキストがひとつ前の状態しかないのがわりあい悲しくて、たしか最終的には17000字くらいあったので1/3くらい進んだ状態のしかなくて、これから書くかどうか迷うところだけれども、たぶんそんなに長くならないはずで、なぜならもう一回書くのがとても面倒くさいからで、でもいくつかの最近の重要なファイルは残っていたので、よしとしたいしジーニアスには感謝しているけれども、とりあえず発掘したファイルのうちのひとつをまたどっかいかないうちにここに残しておこう。ああ、そういえば、朝田君と米子君がやっている「スキマ芸術」というネットラジオの「2007-12-30 : ストレート」にて、私のことを取り上げてもらってました。→http://sukima.chochopin.net/ 去年10月に直嶋君と平間君が来たときの演奏会での磯端さんと鈴木さんとのトリオについてなどなど。あのときの模様のごく一部がyoutubeにあるのですが、私が磯端さんと鈴木さんの演奏と一緒にやったことをもういちど列挙していくと、小型の扇風機でティッシュを床に飛ばす→みかんを5つ食べその皮を扇風機の前に置く→みかんの皮をビニール袋に片付ける→照明のスイッチをいじって灯りを変える、と同時にエアコンをつける、冷房のいちばん低い温度で→コーヒーミルでコーヒー豆を挽き扇風機の前に置く→照明のスイッチをいじって灯りを元に戻す、と同時にエアコンを消す→お湯の入った洗面器を扇風機の前に置きバブ(桜の香り)を入れる→そのお湯の入った洗面器にバブ(竹の香り)を入れる→溶けきったところで終了。視覚であったり嗅覚であったり雑多にいろいろあるけれども、ここに共通しているのは、おそらく、なんらかの空間の変化、ということで、空間に変化を与えるための方法の、このとき私が思い付いた限りのバリエーションである、ということ。空間の「変化」ということはもちろん出来事の時間的な推移ということでもあって、ほとんどの出来事の時間的な推移には音がつきまとっていて(たとえ人間の耳には聴こえなくとも。また、これが米子君のいう、出来事のなかでは音とか匂いとかそういうのがそもそも不可分である、ということ)、音と時間的な推移さえあれば、音楽であり、かつ、演奏でもあるのでは、ということを、やる前に磯端さんと鈴木さんには説明していて、といっても、実のところをいうと、このことの指し示す領域は「音楽」の枠内に収まるものではないのかもしれない、むしろ、もっと広いところでこそ有効なのかもしれない、と思っていて、いま思えば、今回の発想に至る思考の経緯がそもそも「音楽」だけを標的にはしていなかった。このとき念頭にあった(いまもある)ことは、なんらかの自分の行為が、まずは背後にある(と思われがちな)参照項・文脈抜きでひとつの行為としては誰にでも簡単に理解できること、その行為そのもののなかで(だけは)なるべく原因と結果の繋がりが見えやすい(完結している)こと、そして、その行為を行為したことに対する根拠(参照項・文脈?もしくは作者の狙いとか?)が、個々の人々の記憶やらなんやらでそれぞれ埋められてしまうようなこと。そういう意味ではティッシュ飛ばしは余計だったかもしれない。また、その行為を行為したことに対する根拠(参照項・文脈?もしくは作者の狙いとか?)が、個々の人々の記憶やらなんやらでそれぞれ埋められてしまうようなことと、行為そのもののインパクトで行為そのものに対する根拠(参照項・文脈?もしくは作者の狙いとか?)への通路を塞ぐこと、は似て非なるものであるけれども、使いようによっては同じような効果が得られるかもしれない。そして、これらのことはものすごく単純なことで、たんに私のなかの「因果」と因/果のような「二項対立」そのものとのたたかいであり、それをすり抜ける、けものみち(というひとつの豊かさ)の探索、ただそれだけだったりする。あと、スキマ芸術のこの回で朝田君が、長谷正人「映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン」を引き合いに出して言っているように、写真・映像技術(複製技術)は、全てをフラットに捉える残酷なもの、である反面、全てを平等に捉える慈悲深いもの、であるかもしれないけれども、その二次元の像をもういちど見て三次元化し(擬似三次元的かもしれない)、自分の感覚で切り取るのは人間の認識であるわけで、その切り取りの部分に焦点を当てると、必ずしもフラットでも平等でもないんじゃないかしら、と思っている。どうしても最後は人間が認識しないといけない、そうしないとそもそも「それを経験する」という出来事自体が生じ得ないのではないかと。複製が二次元のままであるのは誰にも見られない限りにおいてではないかしらと。と書いているあいだに、複製技術は、なんらかの出来事を三次元ではなく、二次元で感じる感受性を生んだ、そういう感受性の前提である、ということなのかしら、とも思った。そして角田俊也さんの「描写」概念は複製技術を基底に置きながらも、あくまで出発点から三次元的であろうとする、という意味で、珍しいというか、珍しい以上の大きな意義がある。松田暢子さんの「 居残りドリル(AFTERSCHOOL DRILL)」「2008-03-11 ぐるりのこと。」より

私のぐるりにいるかわい子ちゃん達がけっこうみんな持っていて、持っている子達のもうこいつのこと好きで好きでたまらんのといった愛情がこっちにまで伝染してうちも欲しい!と思って去年勢いよく買ったFREITAGのかばんとともに東京ライフを過ごしている。FREITAG好きの人の良い所は、同じくFREITAGのかばんを背負っている人がいると、必ずビビッドに反応し、それ、いいね!と褒めたたえるが、本当は自分の持っているFREITAGが1番イイ!と思っているに違いない所だ。非常にかわいい種族だと思う。

アップされている松田さんのらしきFREITAGをみて思ったのだけれど、なんというかこういう(感じの)柄は初めてみた。配色、丸の配置が絶妙で、これはすごくいいなあ。私は8000円くらいの簡素な作りの赤い手提げを持っているけれど、その薄汚れ感が、家がない人が持っているアレみたいと言われるし私もそう思うしそこがいいところでもある。ああ、だいじなことを書き忘れていて、今日ぐっさんと梅田のヘップナビオ跡にできたなんとかメンズ館というところの2階に行って、マルタンマルジェラとかギャルソンなど見てみたのだけれど、見るだけだけれども、そこのギャルソンで働いているある男性に見覚えがあって、どこで見たかな、どっか別のギャルソンか、と思ったのだけれど、近所のブックファーストでちょっと前まで働いていたひとで、たしかにブックファースト店員にしては、非常にエッジの立った佇まいで、常々ふしぎには思っていて、そういえばさいきん見なくなっていたなあ、でも、自分に合ったところで働けてよかったねえー、よかったねえ、とぐっさんに言っても仕方ないがとりあえず言って、ギャルソンで見た、ソールにピンクとキミドリをあしらったフレッドペリーのスニーカーがかわいいなあ、と思ったら2万ちょっとで、ぜんぜん可愛げがない。