「フィールド・レコーディング」について。抜粋して再録(福居伸宏さんにならって)。2007-07-06「ひとつの30分カセットテープとふたつのポラロイドによる「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」へのよくある質問とその答えの一例」はできればリンク先で全文を読んでいただけたらと思います。だからといってどうということもありませんが部分だとよく分からないかもしれません。。言う(書く)は易し、行う(体現する)は難し。(自戒をこめて)

2006-03-12

最近川口君はメトロノームを使ったフィールド録音をやっているらしく、なかなか極端な試みで非常に面白そうだ。また、そのこともあって僕の野外コンピューターソロに興味を持っていた。どちらも環境音というキーワードで共通しているが、意図しているところのベクトルは少し趣きが異なる。川口君の場合、おそらく、ある環境/状況の中に違和感としてのメトロノームの音を置くことで、環境の聴こえ方がどう変わるか、ということだと思う。(ひょっとしたらその逆かもしれないが)そう考えると唯一の環境への干渉が、人間による「演奏としての音」ではなく、メトロノームによる「ただの合図としての音」である必然性も見えてくる。僕の場合は、いまのところ演奏のつもりでなくとも、音の操作はしているし、録音の場所によっては、環境音と演奏の対比のようになっていることもあるけれど、大枠としてはそういうことではなくて、野外にあるいろいろな音の中で自分も音を出してみることで、いわゆる「演奏の音」、「音楽としての音」から離れる事ができないかと思ってやっている。

2006-08-26

自分ではないもの、楽音ではないもの、を録音する時に、「選択(切り取ること)」という「主体」が残ってしまうという逆説をさらに逆手に取って「主体」に帰属させてしまうことが「フィールドレコーディング」のひとつの限界であるような気がする。ここにさらに「演奏」の限界もぶつけてみることが、自分でも気付いていなかった狙いのひとつかもしれない。

2007-01-08
フィールドレコーディングは写真なのかレディメイドなのか。枠組みを用意するという意味ではどちらも同じものか。フィールドレコーディングと即興の類似点。音を録ると音を出す。そのあいだに行われることと行われないこと。

2007-01-21
フィールドレコーディングは写真でありレディメイドであるようだ。そしてその「客観性」とそれに付随する「非音楽性」という幻想はそろそろというか、いい加減取り除かれなければならない。そしてそれを反転させて、音楽の「主観性」という幻想もそろそろというか、いい加減取り除かれなければならない。

2007-06-12
川口貴大「sound scape with two objects」を何日か前と今回と2回通して聴いて思ったのは、音楽として聴かれて音楽として評価されるのは少し違和感がありながらも、それとは裏腹に、音に対する感覚は、どうしても音楽家のそれだと言わざるを得ないと以前ここに記したけれど、そう思う具体的なとっかかりとして思いつくのは、音を録るという意味での単なる録音の質と、入っている音の種類のふたつがある。川口君は音を録る技術のもろもろとその機材には向上心や強いこだわりを持っていて、いまはどうか分からないが以前、ひとつのエクササイズとして毎日なにかしら外に音を録りに行っているというはなしを聞いたりしたし、機材面でもいろいろな創意工夫をしていたりする。また入っている音で一番目立つ要素は、1曲目には鳥が立てるいろんな音とキッチンタイマーの音で、2曲目には水の音と音叉を弓で弾く音で、要素としては極めて音楽「的」だと思う。「録音」することに付随するもろもろに対するこだわりと、録音する音を選んだセンスから考えるとどうしても音に対する感覚は、どうしても音楽家のそれだと言わざるを得ない、と考えざるを得ないような気がするが、これもいろいろな先入観と思い込みに支えられた思考だと思うし「外で音を録音する=フィールドレコーディング=(既にいま)音楽のいちジャンルである=音楽である」というような短絡思考を前提としてスタートとしてフィールドレコーディングを語ってしまうこととそう程度は変わらない。そういえば大学の頃、自作の映像作品に自作のノイジーな曲をつけている友人がいて、作品の講評会のようなもので教授がこの音は一体なんなのかなにか気に病むことでもあるのかとこの友人に訊ねていて、ここではなしを遮ってその時の学科の助手をしていた友人が、これはノイズ「ミュージック」という音楽なんです、という、意味としては、教授が聞き慣れない知らないだけで、これはノイズ「ミュージック」として、こういうものとして音楽として認知されているんです、というようなことを言っていて、これもまさにさきほどの短絡思考の典型で、といっても、音楽なのか音楽ではないのかよく分からないことをさまざまな困難にぶつかりながらも続けてきた先人がいたとしても、いつからかノイズというジャンルとして名指されて発展してしまった以上あとからそれに触れる私たちは名指される前のものに触れることは出来なくて、まずはジャンルとしてのものからしか触れることはできないからしょうがないとも言いたくなるがしょうがないと言って当たり前のものにしてしまったらダメだと思う。川口君は「フィールドレコーディング」ではなく、フィールドでレコーディングしているのであって、簡単に「フィールドレコーディング」してしまうのではなく、出発点の「外で音を録ること」から考え(直し)ているんだと思う。

2007-06-14
フィールドレコーディングについてそれを、音楽であると思うならどうして音楽なのか、音楽でないと思うならどうして音楽でないのか、どちらでもないと思うならどうしてどちらでもないのか、どちらでもあると思うならどうしてどちらでもあるのか、を考えることがフィールドレコーディングに限らず、これから音楽を考える踏み絵のようなものになるような気がするがどうだろうかそうでもないだろうか。ちなみに私は選択を強要し思考を誘発する「踏み絵」としての、フィールドレコーディングには興味があるけれど、ひとつの音楽の形式としてのフィールドレコーディングには、あまり興味がない、わけでもないがあまり興味がないとしても、好むと好まざるとにかかわらず、ひとつの音楽の形式としてのフィールドレコーディングには、なにかしらのお返しをしてしまうことになるだろう。フィールドでレコーディングしているが、フィールドを起点にフィールドの視点で考えること、レコーディングを起点にレコーディングの視点で考えること、フィールドレコーディングを起点にフィールドレコーディングの視点で考えること、がただ楽しい。

2007-07-06「ひとつの30分カセットテープとふたつのポラロイドによる「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」へのよくある質問とその答えの一例」
Q:なぜ野外で音を録るのですか?
A:自分で音を出さなくてもすでに音がたくさんあるからです。私にとっての野外は自分を含みかつ自分以外としての他者です。コントロールはできないけれど互いに影響を及ぼしてしまったりします。主観と客観、自己と他者、フィクションとノンフィクションの関係に興味があります。また野外で録音することは音楽はどこで生まれるかという問題にも触れてしまい、そこから芋づる式に、作者について、音に含まれる意味について、ひとつの形式としての野外録音(フィールドレコーディング)についてなど、いろいろと問題が浮かび上がってきます。
Q:なぜコンピュータの音を野外の音と一緒に録るのですか?
A:元々は野外でコンピュータの演奏をすることで何か分かることがあるかもしれないという目的だったのですがいつのまにか全く変わってしまいました。いまはコンピュータについているマイクとスピーカーを内部で直結することで起きるピーッというハウリングの音だけその場で出しています。コンピュータを置いたらあとは触りません。<中略>自分の分身としてコンピュータを野外に置きその状況を録音することで、私は録音するものであり録音されるものでもあるわけです。「演奏者」としての私が作者かというと微妙ですし「録音者」としての私が作者かというとそれも微妙になってきます。録音中、私は本を読んでいるか眠ってしまっているか何か食べているか、どこか近くに散歩に行ってしまうかしています。私の代わりにコンピュータに音を出してもらい、私の代わりにテープレコーダーに音を聴いてもらっているあいだ、私は「野外」のひとつとして振る舞っています。録音によってその状況を知覚し記録するただひとりの超越者としての「作者」の立場は、この一連の行為における私にはそぐわないように思います。

2007-07-30
「選択」と「認識」がなければ、「音」は「音楽」にはならないということよりも、ここでいうケージとフェラーリの堂々巡りの方が重要だと思う。この堂々巡りについて考えることは直接音楽について考えることに繋がるのかもしれない。この堂々巡りについて考えることは「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」に知らず知らず含まれていたことでもある。音楽がどうやって始まるのかにこだわりすぎているような気もする。「音」と「音楽」にとっての「選択」と「認識」という構図になにかあたらしい視点を持ち込まないとそのうちこの堂々巡りの意義も少しづつ失われていってしまうかもしれない。そう思うとケージとフェラーリの堂々巡りだけでなく、鈴木昭男の「点音」についても気になりだす。鈴木昭男の「点音」は(どこで聴くかという意味での)リスニングポイントを設定することで「選択」と「認識」のプロセスを起動させる。フィールドレコーディングは、レコーディングポイントの設定と録音によって「選択」と「認識」のプロセスを起動させる。環境音を起点にしたプロセスの起動という意味では「点音」とフィールドレコーディングはほとんど同じものだと思う。聴くのがヒトか機械か、いま聴くかいつか聴くかの違いはあるが。ケージの「4分33秒」は(なにを聴くかという意味での)リスニングポイントを設定することで「選択」と「認識」のプロセスを起動させる、というよりも「選択」と「認識」のプロセスを意識させる。

2007-08-08

「フィールドレコーディング」でいうフィールドを人間と対比させて、非人間的な無秩序な無作為な無意図な「自然」という風に考えるのはたぶん楽しくない。そして「自分ではないもの」として考えるのももうあまり楽しくない。正しい解釈は、とか、的確な解釈は、とか、妥当な解釈は、とかそういうことはどうでもよくて楽しいか掘りがいがあるかに尽きる。なぜ「フィールドレコーディング」でいうフィールドを、人間と対比させて非人間的な無秩序な無作為な無意図な「自然」という風に考えることが可能なのだろうか。なぜ「フィールドレコーディング」でいうフィールドを「自分ではないもの」として考えることが可能なのだろうか。

2007-08-27
私は、ひとりの贋作者として「フィールド・レコーディング(音を記録すること)」によって写しとられた「世界」が、物理的にも(認識論的にも?)どうしても「世界'」に[なってしまう]ことを問題にしている。その「'」を贋作者から「贋」を取るための言い訳に使っても「音楽」とか「個」に回収されるだけなので、その「'」をまずはあくまでも贋作者としての消極的差異として考えてみること。

2007-09-04
私はテープレコーダーで録音しているあいだ、「いま、テープレコーダーが録音している」ということを意識して、テープレコーダーがぜんぶ録音してくれている、という気持ちで、周りの音(に限らず光や温度や匂いや風などの変化)という「振動」する「世界」を体験している。この体験は、マイクからの入力をヘッドフォンでモニターしながら録音するのとは、おそらく違う。マイクからの入力をヘッドフォンでモニターするということは、マイクと耳が物理的に一体化することだ。(私のテープレコーダーはマイク内蔵型なので、マイクと耳の物理的な一体化は不可能である)また、私が、マイクからの入力をヘッドフォンでモニターしていない以上、録音されたテープに入っているのは私の「記憶」ではない。私のものでないから、私の家に置いておくわけにもいかず、無料配布してだれかに委ねようと思ったのだろう。だれのものでもない(強いていえば私のテープレコーダーの)「記憶」であるテープは、私からだれかへ、だれかにとっては、だれかから私へ、うつってゆく。だれのものでもない「記憶」は、だれのものでもある「記憶」なのだろうか。

最後に、「フィールド・レコーディング」という言葉は出てこないけれど、なんらかの関係があると思われる刀根康尚さんのことばから

2007-08-24

もうひとつ面白かったのは中ザワヒデキ、松井茂を中心とした機関紙「方法」に寄稿された刀根の文章で、ここで全文読めるが引用というかコピペすると

 音楽にかんしては、音楽が芸術から分離することによってしか音楽でなく、芸術としての音楽は、芸術であるという負債を負うことによってのみ芸術たりうるが、音楽はその負債を放棄することで音楽である、という現状認識が必要なのだ。この負債は音楽を放棄することを要求するが、芸術家である限りかれが芸術家であるというまさにその理由によって、社会にたいしてこの負債を維持することによって、芸術と音楽の分離を拒絶することが要求されているのだ。私がサウンド・アートと呼ぶものはそのようなものを指す。

というもので、ここで刀根は音楽としての音楽と、芸術としての音楽を的確に言い表している。これは大袈裟でも妄想でもなんでもなく、といちおう最初に断っておくが、私はなんらかの演奏というかなんらかの活動をする度に「音楽」から[芸術と分離すること]を求められ、また「芸術(負債としての)」から[音楽を放棄すること]を求められていて常にその板挟みになってきた。私がかつて書いた文章のある箇所、「演奏」か「パフォーマンス」かという区別への違和感を書いたくだりにそれは少しだけだが顕われている。私はその板挟みに遭遇する度に、双方を取りなしなだめすかして、なんとかしのいできたし、これからもそうするしかないと思っている。「どっちでもあるし、どっちでもない!」と言うことに全く意味はなく、どっちでもあるし、どっちでもないことを体現するしかない。そこになにかあることを知るには、それに躓いて転ぶしかない、のかもしれない