ぱらぱらと雨が降ってきたので、いま思いついたけど、すべての感じ変換をスペースキー一回のみにする、っていうのはどうだろう。すでにいまひとつおかしくなっている。ぱらぱらと雨が降ってきたので、洗濯物をとるべく上の家に行く。事務所を出て。お昼は味納喜知でラーメン、片面で、替え玉も片面で。片面か。そうですか。そういう変換ですか。堅い面と言いたいのだけれど。面ですか。めん、だと面なのですか。そうですか。五十嵐太郎「現代建築に関する16章」を読了。語り卸じゃない語りおろしだったかな、だからか、わりと後半ざざざっと流す。いや私ではなく著者が。柏木博「道具とメディアの政治学」はなかなかおもしろい。91年ぐらいかな、でたのは。いやいや違った85年だ。そんな感じがします。私が5歳のとき。このまえ家族+2人+1匹で食事していたとき、私がもう28歳だ、というはなしになり、父ちゃんが、おいが寛ちゃんの歳のときには寛ちゃんはもう生まれとった、というようなことを言って、それを言い換えて私が、おいがおいの歳のときにおいは生まれとった。何回も口に出してみて、この言い方のおかしさを味わっていたら、父ちゃんにうけた。おい=おれ。方言で。デザインとか建築の本を読むと、必ずでてくるのが、モダニズム。近代。機能主義はかならず行き詰まるけど(というのも、デザインを機能において価値付けようとすると、ひとつの機能にはひとつの形態しかないということになってしまって、つまり「形態は機能に従う」ということを突き詰めると、ある機能にはそれに最適化されたあるひとつの形態のみが対応する、ということになるわけで、そうなると新たな機能が生み出されない限り、デザインのやれることはひとつづつなくなっていく。日々、ある機能における最適化された形態が生み出され続けるだろうから。そこで、滑稽なのは、そのどれもが、自分こそが最適化された形態である!と主張しあうこと。そして結局のところ、機能主義の考え方は、日々あらたなモノを生み出す言い訳にはならないこと。私たちは、ある機能に対する個人的な解釈を形態として生み出しているのであって、すべての解釈をたたき潰してただひとつだけ存在する解釈=形態なんてありえない、現実的に考えて。理念としてはありうるけれど。ただひとつの形態を誰かが生み出す、なんて非現実的なことよりも(誰かって誰だ)、誰もがそれぞれに日々の生活のなかで考え、解釈している、ということの方が重要だ)、コーヒーにはいってしまったまつげをもそのまま飲む。いやいや、ちがう、モダニズム・近代についてちょっと調べたい、ということだった。モダンデザインのいう、デモクラシー(民主主義)っていうのには、じゃっかんの違和感がずっとあって、それが当初想定されていたものとは異なる結果になった、という意味で失敗していると思うけれど、大量生産大量消費に基づく「平等な」生活の向上が一方では単なる「均質化」でしかなかった、というのは昨日おふろで読んだ柏木博「道具とメディアの政治学」でずばっと書いてあったこと。とはいえ、このことは実感として、ある。平等=均質化なのだ。で、たいてい平等、平等、と大きな声で叫ばれるとき、それは単なる均質化を指している。均質化を平等と言い換えているだけ。あるルールのもとに均質化することを平等だといっている。みんな同じ=平等=均質化。いや、均質化が悪いか、といわれると、もちろんよく分からないけれど、いまひとつ思いつく弊害は、均質化していることが前提になると、もともとある違いを実感できずに、わざわざ違いをつくりださないといけなくなること。違いは「ある」ものじゃなくて「つくる」ものになってしまう。しかも人間が「つくる」違いなんて、他の人間の違いとそんなに変わらなかったりするから、これはもう悲劇だ。いかに他の人と違うか。趣味の違い、好みの違い、考え方の違い、美学の違い、思想の違い、容姿の違い、違い、違い、違いをつくろう。個性をつくろう。あなただけのあなたに。違いレースからはなかなか降りられない。私自身もまだ乗っているし。というか、降りられるような質のものなのかどうか。レースを降りようとすること自体、そういう「違い」として違いレースに取り込まれるし、その誘惑は強い。降りられもしないのに、降りようとする身振り。それも強烈な個性になる。不可能を志向する身振り。それも強烈な個性になる。不可能であればあるほど個性は強くなる。だから人間はより不可能なことを志向する傾向がある。個性を求めるひとほどこれは強いと思う。身に覚えがある。問題を解くんじゃなくて、いかに解けない問いを探すか。それもまた不毛なレース。というふうに考えること自体が、私が個性にこだわっている証拠だ。ことばとモノ・コトについての、おもしろい記述が、五十嵐太郎「現代建築に関する16章」のあとがきにあったので、引用する。

言葉は単なる建築作品の解説にとどまりません。ときとして創造的な概念は、言葉によって新しい建築の地平を開きます。こうした言葉とモノのダイナミックな関係も存在します。例えば、モダニズムの時代において、「形態は機能に従う」や「住宅は住むための機械である」というアフォリズムが流布したとき、建築のイメージは様式という枠組みから解き放たれて、根底から変わりました。あるいは、批評家のコーリン・ロウが透明性の概念を二種類に分けて論じたとき、現代建築の方向性を誘導しただけではなく、過去の建築へのまなざしにも影響を与えます。レム・コールハースが「ビッグネス」や「ジャンク・スペース」を語り、青木淳が「原っぱ」を論じるとき、世界の見え方が変わるはずです。それは新しい現実の可能性ももたらします。おそらく、現代建築のキーワードを通して、空間、時間、そして世界の状況を測定することもできるでしょう。

ことばはモノ・コトに従属しているわけではないし、モノ・コトはことばに従属しているわけではない。ふたつでひとつみたいな関係がある。モノ・コトをどうことばで捉えるかで、モノ・コトの見え方が変わるでしょう。なにかを見聞きするときにことばはかならず介在している。ことばというと、論理的なものをイメージするけれど、寝る前にあたまに浮かぶなんの脈絡もない連想の映像もまたことばに媒介されていると思う。口でも想像でも「発音しないことば」ってだけだ。それが「ことばにならないもの」と呼ばれているものだと思う。たくさんのことばをドーナツ状に並べたとして、その真ん中の空間、それを「ことばにならないもの」と呼びたい誘惑にかられるけれど、たぶん違う。いろんなことばの使い方ができるようになりたい、と思う、とりあえずは。ことばをうまく使えない人間が「ことばになりにくいもの」を捉えられるだろうか。繰り返しになるけれど、ことば=論理的というわけではないし、ことばになりにくいもの=非論理的なわけではなくて、どちらもほどほどに論理的でほどほどに非論理的なんだろう。というより、論理/非論理、という二分法とはまったく無関係なところにあるのだろう。ことばもことばになりにくいものも。論理的なことばのうえに非論理的なことばになりにくいものがある、という階層構造も同じく。でもとりあえず、私たちがアクセスしやすいのは、ことばの方なので、そっちにはたらきかけてみるしかない。まずは。思考にも身体性はある。思考のクセ、思考の制約、という意味で、だけど。どういう身体を思考に与えるかで、考えられることが変わってくるとは思う。糸井重里さんのほぼ日で石川直樹さんとエリックさんと糸井さんの対談をやっていて、読んでみると、糸井さんが「自分の会社では、なにをやるにしても、赤字は出さないようにしている」というようなことを言っていて、あと「コンテンツの作者たちは「売れなくてもいいや」って言い過ぎてる」というようなことも言っている。自分のやりたいことだから赤字でもやるべきだ、っていうのがあるなら、自分のやりたいことなのであれば黒字にしてみせないといけない、というのもやはりあるだろう。「売れなくてもいい、人が来なくてもいい」というのが、収支を考えない言い訳にしかなっていないのであれば、やはり考え直さないといけない。売れないもの、人が来ないもの、が、売れる、人が来る、ようにするのがいちばん創造的なのかもしれないし。いや、どうやったらいいか想像もつかないくらい難しいけれども。糸井さんのいう「ゆるみ」っていうのは、なにかをしてもやりっぱなしになってしまうことかもしれない。もちろん、見つけてくれる人が現れるのをひたすら待つ、ってのもある。じっくり評価を待つ、信じて待つ。死んでも待つ。自分が死んだ後に現れるかもしれないことを期待しつつ。