日付が変わって2月5日の2時半くらいに録音。そして今日(2月5日)の19時くらいになんばのパチンコ屋、どういう店名だったかは忘れたが、その前で米子君と合流。といってもパチンコをやったことはない。てきとうに歩いていたら見つけた自由軒でお店のおば(あ)ちゃん曰く名物カレーおいしいよ、とのことなので、それにしたら、あの炒めてないドライカレーっぽいのに生卵がのっているやつがくる。私たちが入ったときはほぼ満員で、そのあともひっきりなしにお客がくる。テーブルをはさんで目の前には韓国人カップル旅行者がいる。話してみたいと思ったがやめた。壁に貼ってあるメニューの紙の名物カレーの紙には「オダサクごのみ」と添えられていて、オダサクとは織田作之助のことで、織田作之助の「夫婦善哉」の続編がいまごろ見つかったこととかと絡めつつ織田作之助たちが生きた時代の「検閲」について追っていく番組をHNKでこのまえ見た、というはなしをする。雑誌のなかのある小説のある特定のページだけを(製本してしまったあとに)切り取るように、という処分があったらしいよ、というはなし。自由軒を出て無印に向かう途中に忘れないうちにその録音とテキストの入ったCDRを米子君に渡す。これが木曜日にはもう。無印でMUJI LABOの商品をしばらくみる。無印のカフェで、私はチョコラテ、米子君は中国茶のあったかいの。無印で働いている女性は、無印の雰囲気とか、そのこざっぱりした服装とかもあるだろうけど、なんとなくいい感じがするというか、2割増しくらいで、よく見える、という持論。というと持論て。と言われる。2割増し、というのも失礼といえば失礼。無印で働くまえから無印が好きな人が働きに来るのでは、だからその無印感も板についているのでは、とのこと。米子君のふだんの活動範囲(たとえば、なんばとか)にはギャルが多すぎる、とのこと。ギャルともはなしてみたいけれども、どうも壁というか、位相の違いを感じる、というはなし。そういう文化的な「範疇」についてのはなし。無印ではあんまりギャルを見かけない、というはなし。無印のカフェには、無印っぽいひとしかいない。印が無いという印が生まれざるをえない、という逆説。スタートレックの賢いエイリアンが言っていたということばを教えてもらうが、米子君もうろ覚えっぽい感じで、よって、私はちゃんと覚えてない。でも多様性の交叉が無限の多様性を生む、ということだったような。で、いまは多様性が並行に存在しているだけで、そういうことが多様性だということになっているような、というはなし。「範疇(としての共同体?)」としても「個」としても交わらない、もしくは結果としてしか交わらない、というはなし。たとえば、音楽家と映像作家が、一緒になにかやろうぜ!となったときに、たいていは、音楽家が音楽を担当し、映像作家が映像を担当する。で、映像作家の映像に音楽家が音楽をつけて、音楽家の音楽に映像作家が映像をつける、と。でも、映像作家と音楽家が手を組んで詩を書くというのもアリなのでは、そういうのが交叉っていうのかもよ、というはなし。映像作家は映像だけに興味があるわけでもないだろうし、音楽家は音楽だけに興味があるわけでもないだろう、そもそも「自分の「専門」を持て!」というのもひとつの選択肢でしかなくて、みんなが「専門」というかたちで自己の同一性を維持する必要はなかろうに、というはなし。「個」のなかでのてんでバラバラな興味(多様性)を、マクロな「個」と「個」の多様性の交叉に活かすこともできるだろうに、というはなし。そういうはなし。そして、1月12日のイベントのことについて書き忘れていたことがふたつあって、大谷能生さんのDJはジャズでした。休憩時間とかにこういう音楽があるとなんかこう華やかになりますね。というか、ジャズでした、と書くとそれ以上書く事がなくなってしまうので、よくない書き方。ともうひとつは、開演まえに無料配布のCDR「小田寛一郎youtubeで、いろんな人が唄うMr.Children「しるし」「抱きしめたい」を見る」(音を録音したもの)を並べていたら、吉村さんから、CDRにしろなんにしろ「流通させる」ということはしないんですか?という問いについてで、ごにょごにょとあまり関係ないことを答えたので、あとで考えてみたのですが、2月5日の2時半くらいに録音したブツにもいえることですが、だんだん「音」を始まりにした(そして「音」を終わりとする)思考の傾向ではなくなってきていて、たとえば、CDRとかの音だけでなにかやるためのアイデアをぜんぜん思いつかないのです。びっくりするくらいに。音だけで完結させるためには音による音についての問題圏のなかで思考しなければいけなくて、たとえば、コンピュータで演奏することについてとか、即興演奏についてとか、楽音と非楽音についてとか、音楽とそれを支える原理についてとか、そういった音による音についての問題圏から、自分の思考の傾向がはみでてしまった感じがあります。そのような意味で「音楽家」ではないのですが、といっても、結果的に音による音についての問題圏でしごとをする(してしまう?)、つまり音楽家であるにも関わらず非「音楽家」を自称する、といったようなことではなくて、ただたんにそういう考え方がもうできなくなってしまった、というだけです。幸か不幸か。それをどう名指すかはどうでもいい、とまではいいませんが、勝手に決まってしまうと思うのでもうどうでもいいという意味ですが、それよりも、私にとって、なにかを為す、ないしは、なにかのかたちを為す、ことが最終的な目的、目標ではないということは、なんとなく自覚しています。たぶんただかんがえごとをしたいだけだと思います。少なくとも「表現者」とはいえないというか、そういうのはおこがましい、とか卑屈なことは言いませんが、「表現」そのものには自分の欲望が向かっていないような感じはします、なんとなく。と考えてみたはいいもののそもそも「流通」させないのか、広く広めないのか、という問いへの答えになっていないような気がして、考え直し。なんとなくなんらかの複製メディアにのってなにかの同一のモノがいろんなとこに行くのは、自分の「手に余る」感じもする。といってもここにこういうことを書いていることはそういうことであるけれども。まあ、文字はまたちょっと違うけども。なんらかの複製メディアにのる(そのメディアが規定する)範囲で考えることができない、というとちょっとかっこいいので我ながらムカつく。たんに、なんらかの複製メディアにのる(そのメディアが規定する)範囲で考える「能力が無い」ということであります。ここ何年かは半端に獲得したいろんな「能力」を意識的に捨てていっているような感じがあります。といっても、能力はいらなくても、なんらかのメディア(媒体)(記録としてのメディアと媒介としてのメディア)なしになにかを表すことは不可能ですし、表現的な行為はどちらかといえば「表現」というよりも「翻訳」に当たるのかもと思ったりもします。直訳よりも意訳のほうが文ぜんたいの意味をよく伝える、というような。あと、といっても、経験を狭めるからこそ成り立っていることもあるよね、ということ。それこそ「音楽」とか。ああ、ひとつ書き忘れました、「流通」となると、なにかと「交換」しなくちゃいけなくて、いまの時代、たいていは貨幣を媒介になされるわけですが、そのへんを考えたら楽しそうです。「価値(づけること)」についてのはなしにまで広がってしまいそうな気配がしますが。


ダニエル・チャンドラー「初心者のための記号論(日本語版)」(田沼正也訳)「はじめに」より

人間の経験はもともと多感覚的であり、経験の表現はそこに含まれるメディアにより制約され、アフォーダンスに従属している。全てのメディアは、それが用いる経路に制約される。例えば、あの柔軟な言語においてさえ、言葉では表現できない経験がある。
<中略>
 あるメディアを選ぶことは、その人が必ずしも気付ないうちにそれを利用する目的の一部分でない影響を、その使用者に与えるようになる。メディアに余り熟知するとそれが持つ調停作用に‘麻痺’させられてしまう:‘見失ったものは分からない'。そのプロセスに麻痺している限り、その利用において‘選択’を働かせているとは言えない。このようにして、手段が目的を変えていく。メディアの選択によって強調または軽視される現象の中には、あるメディアを使う目的がある。ある場合には、特定のメディアの使用により、‘目的’は微妙に(そして見えないように)再定義されてしまうかもしれない。


今週木曜日はこれもあります。


『Solos #2』


Martin Kuchen (sax)
西川文章 (guitar)
木下和重 (violin)


2008年2月7日(木)
FUKUGAN GALLERY
大阪市中央区西心斎橋1-9-20 4F T/F 06-6253-3266
open 20:00 start 20:30
1500円 ワンドリンク付き