花粉が飛んでいて、母ちゃんの方が症状がひどい。地域のコミュニティセンターというところに行ってお風呂に入る。お風呂の隣にはジムがある。檜の露天風呂がある。風呂桶のなかの足場がぬるぬるしていて滑りそうになる。出るとき扉を閉め忘れる。ケーブルテレビでサメの番組をやっている。コミュニティセンター、なんとか館のお風呂はとてもぬるい。43度くらい?温度計によると。その温度計の温度を測る先端が、あまったケーブルごとぐるぐる巻きで湯船に突っ込んであり、なかなかよい感じの適当さ。21時くらいに書いたこと。ミッションインポッシブルがあるよ。デン、デン、デンデン、デン、デン、デンデン、ってやつ。とあのメロディーを母に伝えると、デンデンって何?と問われる。MI3がテレビでやっている。ラビットフットはどこだ。と訊かれている。いや、そもそもラビットフットってなによ。パリにあるらしい。撃たないと思ったか!使い捨てカメラに仕込まれたミッション情報。ここで爆笑。なんだこれ。5秒後にこのメッセージは消滅する。神戸に戻ったら買うリスト。・青木淳悟「このあいだ東京でね」・エンツォ・マーリ「プロジェクトとパッション」・SND「Atavism」・川口貴大「n」・ASUNA「THIS」。ラスターノトンってまだコモンズがディストリビュートしているのかしら。とりあえず、高いのよね。まあいいけども。青木淳悟「いい子は家で」、福永信「コップとコッペパンとペン」、諏訪哲史「アサッテの人」の三冊はなんだかんだいってまだ一回しか通読してないので、読みたい。青木さんの文章の言い回しとかにときどき作為を感じることがある。じゃっかんネガティブな意味での。作為というかちょっとだけわざとらしく出っ張りがつけてあるというか。わざとわざとらしく、かもしれないけど。だからどうってこともないけど。ひさしぶりに保坂和志さんのホームページに行ってみたらば、掲示板で村上春樹さんの話題が盛り上がっていた。私は大学のとき、やたらに村上春樹さんの本を読んだ。原チャリで箕面ブックオフまで行って文庫本を買う。一部の短編を除けばほぼ全部。でも卒業してからはぜんぜん読んでなくて、「海辺のカフカ」と「アフターダーク」は読んだ。「海辺のカフカ」は以前の長編に連なる部分があると思ったけど「アフターダーク」はまだ読めた。なんかなあ、彼女とも話したことがあるけど、村上春樹さんの本って(おもに長編)若者が読むものというか、若者っていうのは18くらいから21くらいの。高校生から大学生くらいの。なんというか、どこまでも自己完結的な人ばっかり出てくるので、それと自分が共振したり、主人公がやたらクールにいろいろ諦めているので、「そういうものだ」とか、それがかっこいいと思ったりするわけで、これは身に覚えがあるので、よくわかる。いまとなっては、良い影響だったかというとすこし怪しい気もする。なんかなあ、「かっこよく」「逃げよう」としてしまうのよね、たぶん。なにもかもぜんぶが自分をまもるためにはたらくようにしているというか。いやいや、そこまでじゃないか。どうやろか。「ダンス〜」「世界の終わりと〜」「ねじまき鳥〜」みたいなのも面白いっちゃあ面白いしな。でもそういう意味での「ポピュラーな面白さ」でいえば、ドストエフスキーの長編の方が面白いような気もする。あと、私たちに必要なのは、「雪かき仕事」を「諦め=先取りした言い訳」を反転させた「義務感」で支えるんじゃなくて、「雪かき仕事」を『雪かき仕事』だと思わない、ポジティブさ、創造性、なんじゃないか。仕事の内容に創造性を求めるとかじゃなくて、たんにどんな仕事でも面白がればいいわけで、もしどうしても面白くなければ、なぜそれを自分は面白がれないかを考えれば、とりあえずは面白いわけで、あと、自分を卑下することって、単なる先取りの言い訳でしかなくて、実際はそう思ってないか、言い訳するためにだけそう思っているフシがある。これは身に覚えがあるから、わりとよく分かる。「雪かき仕事」=誰かがしなければいけないこと、って考えるのは、どこか不健康、というか、なんか妙な屈折があるような。誰かがしなければいけない仕事はたくさんあるけれども、「誰かが」ということは文字通り「誰でも」いいわけで、それでもなおその「誰か」が「私」であることに、むりやり意義を見いだそうとする、という。「誰でも」いいことを「あえて」「私」はやっているのだ、と。そんなに「誰でも」がイヤなのか。いや、イヤか、そりゃ。私もイヤだもんな。なんかこのまえ、昨日やったか、テレビでみたマズローという人の欲求の分類を思い出すな。『マズローは、人間の基本的欲求を低次から 1. 生理的欲求 2. 安全の欲求 3. 所属と愛の欲求 4. 承認の欲求 5. 自己実現の欲求 の5段階に分類した。』というやつ。wikipediaより。なんというか、いまふと思ったけど、私は(自分の)「自尊心」っていったいなんなのか、ばっかり考えている気がする。「欲求」を消去すれば、「自尊心」もまた消去される、みたいな試みなのか??でももし仮にそれを徹底することが可能だとしたら、死んじゃう気もするけど。まあ人間は簡単には死なないようにできている、と思ったのは、中学のとき、花粉症かなにかで鼻がつまっていて、左右どちらかの鼻の穴がいつもつまっている状態で、すっきりせず非常に腹立たしく思っていて、あるとき思い立って授業中につまっていない方の鼻を指でおして塞いで口も閉じ、呼吸ができない状態にしてみてもう限界ほんとのほんとに死ぬかも、、って思うくらい、顔が赤くなるくらいまで(もっといって青くなったらかなりやばいと思うけども)、我慢したら見事!つまっている方の鼻の穴が通った!なので、鼻づまりでは人間は死なない。そういうふうにできている、たぶん。