本日で無印の円高還元週間だったか、終了。風呂の湯がたまるまで、たまる、でいいのかどうか分からないけど、湯はりが終わるまで、日記を書く。立川志の輔みどりの窓口」を聞きながら。積ん読ってよく言うけど、正確にはどういう意味なんだろう。買ったはいいがまだ読んでない本なのか、読んでいる途中で止まっている本なのか。いまググれないから分からない。西宮のおじさんの家にはネット環境がない。なので、いま部屋でこれを書いて、マンション出たすぐあたりのところでセキュリティなしの無線LANに繋いでアップする。FLOATの図書室開放日にて、アーシュラ・K・ル・グィン「闇の左手」、松岡正剛「知の編集術」を借りる。蛇谷さんとなっちゃんとSFについて話す。私もなっちゃんもSFはごく最近読みだしたばかりで、よなさんの影響、FLOATに行くとよなさんの蔵書があるのも大きい。私となっちゃんはSFの喩え話の巧みさ、言い換えれば、設定を物語る巧みさというか、そういうものに感心しているのだが、SFがいまいちしっくりこない蛇谷さんは喩え話に入り込めないのではないか。たとえば、イーガンの「しあわせの理由」という短編は描かれる内容だけ見れば、SF以外の語り口、なんならノンフィクションの語り口、たとえば、哲学や心理学、精神分析社会学の語り口でも書けるわけだが、そっちの語り口の方がしっくりくるのでは、と言うと、そうかも、とのこと。あるなんらかの設定なりテーマなり描かれる内容なりと自分のあいだにフィクションが挟まってるともどかしく感じるのかもしれない。とはいえ、たいていのインターフェイス、人間と何かを繋ぐ、にはフィクションの要素があるとは思うけれども、フィクションの種類によっては、その種類のフィクションへの慣れの度合いによっては、もどかしさもあるじゃろなと思う。しかし、語り口が違う、つまり現象の仕方が違うだけで、ある現象であることに違いはないんだろなと考える。風呂に入ろう。