ただいまヘッドフォンから流れているのは、六甲道のりずむぼっくすで1000円だった、Richie Hawtin「DE9:Closer to the Edit」で、その足でツタヤに行き、気分転換に、パトレイバーの劇場版の第3弾のなんだっけ、グーグル検索。「WXIII 機動警察パトレイバー」と「APPLESEED」を借りて、ちなみに「アップルシード」でググると、『伊豆高原 一碧湖 ワンちゃん元気ハツラツ!のペット宿 アップルシード ペンション/プチホテル』というサイトも出てくる。まずパトレイバー。とりあえずマンガはぜんぶ読んで知っているので原案がマンガの「廃棄物13号」のところ、って書いてあっても、それなに?とはならない。マンガとどう違うかなーと思って見ていたらかなり違った。だいたい特車二課がほとんど出てこない。でもさすがに面白かったです。13号を打ち捨てられたスタジアムにおびき寄せるってのもなあ、とは思ったけど。ほいで、ラストで2号機が怪物の細胞を崩壊させるなにやらが入った一発だけの弾を装填した銃を落としてしまって、それを拾った1号機が仕留めるのかな、と思ったら割と淡々と終わる。で、ウィキペディアの「WXIII 機動警察パトレイバー」のページを見てみたら、準備稿の段階では、落として拾って仕留める、っていうふうになっていたらしい。先日行ったばあちゃんの田舎では、何軒かの親戚のおうちに行ったのだけれど、そのうちの一軒のおじさんが、顔を見るなり「おう!サインくれよ!」と言ってきて、叔父さんとふたりで、「いまもらっといたら価値があるかもしれんぞ!」と言っていて、なんのことやら分からなかったのだけれど、叔父さんとの会話を聞く限り、まず叔父さんは、私がバンドかなにかやっていてメジャーデビューを目指しているかのように思っていて、それをそのまま親戚のおじさんにも言っているので、そういうふうに言われたらしい。なんのことやら。ほいで帰り間際には、親戚のおじさんがまたやってきて、「どうや?東京は?」と訊いてきて、これまたなんのことやら分からないが、どうやらこれも、私がたまに(稀に)東京にパフォーマンスしに行っているのを知っている叔父さんが流した情報の影響らしく、「2月に行ったっきりですねえ」「バンドでか?」「いや、ひとりですよ」「ふーん(と親戚のおじさん、なにやら釈然としない顔)」というふうにお茶を濁しつつ、隣のばあちゃんたちの会話に入り、逃げる。妙な情報だけが一人歩きしているので、修正するのも大変だし、修正する手間を思うとそのままにしておいた方がよい、というもうどうしようもない感じがとてもよい。「APPLESEED」は、風景はすごいけど、人間が変。人間がCGに見える。いや、CGなのだけれど、本来ならCGであることを忘れて人間に見えるのが普通のような。CGに見える、ってことの方が勝ってしまう、知覚のなかで。セル画に慣れてるから?とも思ったけど、それだけでもないような。。フル3Dライブアニメって手法とのこと。ライブって。風景や機械類は違和感ないけど、銃弾が壁に当たるのとかも変、とにかく人間が変。髪の毛も変だし。この違和感はなんだ?と思いながら前半を過ごす。冒頭から変だ変だと思いながらもなんとか見続けていたのだけれど、最初の戦闘が終わって人美というキャラが出てきた時点で、これは変!とにかく変!と思って、いったん停止し、ググってみる。それがなぜかというと、これは世の中でアリとされているのか?と思ったからで、といってもググったところでよく分からなかったので、続きを見る。なんだろう、この違和感は。目というか視覚が、どう騙されたらいいのか、分からん感じ。セル画やったら、何の苦もなく騙されることができるのに。なんだろうなあ、ストーリーはさておき、なんだか安っぽいCGのCMを見ているような気になるなあ。いや、でも手間暇お金かかってるんだろうなあ。あと、人間とバイオノイドの共存が具体的にどういうメリットがあるのかがイメージできず。バイオノイドには生殖能力がない、ということは人間と交わるわけでもない。ならなんなのかという。たんに社会を構成する人数の数合わせみたいなもんなのか。人間に特有の「悪」を持たず、人間のようには「間違わない」から、社会をよりよく運営できる、ってことかもしれない。たしか行政・立法とかの組織はバイオノイドが運営している、とか言ってたような気がするが、それならなんで軍だけ人間なのかという。あと、昨日の日記のなかの『関西アンダーグランドの音楽を聴くことで、関西アンダーグラウンドに関与しているつもりになってみたり、』というのは、なんだか例が妙に限定的というか、そういう感じなので、やっぱここだけ消そうかな、、と二回くらい思ったが、やめた。別にファッションみたいに音楽を聴いてもよいじゃないの。いや、誰もファッションみたいに音楽を聴いているつもりはないよ。関西ゼロ年代とか言われてもよく知らないし。そんないうたら私も関西ゼロ年代だし。たぶん。ゼロ年代生まれじゃないけど。ゼロ年代ってどういう括りなんだろうか。よくわからんな。でもひとつだけ自分に照らし合わせて言えるのは、メジャーな音楽に対してマイナーな音楽を聴くときって、なんだか一種の反転した優越感みたいなものがあって、俺は違うぜ!見る目があるぜ!センスいいぜ!、みたいな。いったい何が違うのか、いったい何が見る目があることなのか、いったい何がセンスいいことなのかはよく分からんけど。そういうのがあるから、マイナーな音楽をマイナーである、という理由で聴いてしまって、そうなると、なんだかものすごく閉鎖的というか、自分の「マイナー」以外は全て必要なし!みたいになるのが、なんだかなあというふうに感じるわけです。メジャーとかマイナーとかどこまでも相対的な判断でしかないものが、なぜだか、というかたぶんある種の人間にはそういう必要があって、絶対的な判断になってしまう。少なくとも大学時代の私にはそういうところがあった。「分からない」って困惑されたら勝ち!みたいな。いかに傷付かないかゲーム。もし「分からない」って責められても、心のなかで「分かってない!」って言い返せる。あくまで心のなかで。また、オルタさんへの返信のなかの『画一化といっても私が問題とするのは、似たようなものばっかりでつまらん!ということではなくて、その前の段階、似てはいけない!似ていることは悪だ!違わなければいけない!個性が大事だ!という規範というか強迫観念が生まれてしまうことです。なぜ似ているのはいけないのか、何かと何かが似ていればそれらは同価値なのか、結果と過程においてそもそも全く同じ事物など存在しないにも関わらず、ということがずっと気になっています。』というのを補足すると、うーん、なんだろうな、えー、他人と違うためになにかつくる、みたいな強迫観念ってあるような気がします。いまなんて、他人とまったく同じものをつくってしまう、ことすらもそういう個性になったりもしますし。自己主張のための自己主張というか。それでなければ、主張とはいわないまでも、アイデンティティ形成のためになにかつくる、とか。これももちろん自分に照らし合わせて言ってますが。別にそれが悪いとか甘っちょろいとかは思いませんが、自分自身に関しては、俺の個性は・・・・とか考えるのは無駄だな!そんなんないし!あったとしても足かせになるばかりで役に立たんだろうし!と2年くらいまえに思いました。2008年のoval、なんかドラムみたいな音が。→Oval @ Ring Ring, Belgrade 2008

2006年のZBIGNIEW KARKOWSKI、相変わらずうるさいので安心。→ZBIGNIEW KARKOWSKI live PARIS 2006