水曜と木曜は家の倉庫というか3畳くらいの部屋の整理をしていた。金曜は燃えないゴミの日で、昼からみつ君と六甲に新しくできたコーヒー屋と口笛文庫に行った。土曜は11時くらいに出発して、母方のばあちゃんの弟、大叔父さんの葬式。骨を拾う。日曜はアウトレットに行こうとしてやめる。月曜は今日。最大限に粗くしてみたと思うけど、これでもそれなりに思い出してる方かもしれない。いわゆる、よく言われる、けれども実際にどうかは分からないけれど、小学生の夏休みの日記というものであれば、水曜、お部屋の整理。木曜、お部屋の整理。金曜、みつ君と遊ぶ。土曜、おっちゃんの葬式。日曜、マリオカート。みたいなことになるのかどうか。人間が経験した出来事って、物はそれ自体モノとして存在するので見たら思い出すからよしとして、人間が経験した出来事ってどういうふうに、脳のなかにかどうかは分からんけど、しまってあるのだろう。記憶として定着する前の段階があるような気がしていて、知覚の断片みたいな感じで、それを思い出す=意味にする=整理する=序列化する、ことで「記憶」ということになる気がする。その「思い出して意味にする」と「整理・序列化する」がおもしろくて、意味として認知できないもの、認知しにくいものは、たぶん思い出されないし、認知されたものであっても、その人の好みによって整理・序列化されるから、「もう思い出さない」箱に入れられたりしてるんだろうなと。あと、なにかを認知することとそれについて思い出す作業について、「記憶」って言っちゃうのがちょっとおかしい気がするのは、事実と解釈が混ざっているからで、いわゆる「思い出」っていうものは、事実の(解釈としての)認知と、認知(という解釈)に対する解釈という二重の解釈の結果なので、事実ではないし、まあ「そう思った」という事実ではあるけれども、すくなくとも解釈の問題にはいる。そうすると、「思い出」っていうのは、「感情の保存」なのかもしれない。ほいで、感情という、認知の解釈作業に人それぞれ癖があるのは当たり前だとして、事象を知覚し意味として扱えるようにする認知作業にも人それぞれ癖があると思うのだけれど、それはどのくらい「人それぞれ」で、どのくらい「みんな同じ」なのだろう。認知の段階の癖には、認知という「人間に備わったシステム」の癖と、そのシステムを運用する「個別の人間」の癖がある。あー、でもなー、認知の、「システムの癖」とその「運用者の癖」っていうのは、あまり区別がつかなくて、たとえば認知症は前者であり、パーソナリティ障害は後者である(どっちも癖というか障害だけど)、と言えるかどうかというと微妙なところで、認知症の障害にも個別の癖が入るし、パーソナリティ障害がすべて個別の癖で説明できるかといえばよく分からない。「システム」と「運用者」でひとつのシステムと言うしかない。ソフトとOS・ハード、でもいいのかな。システムがソフトで、運用者はOSとハード。