ツイッターを見ていたらば、「シバキアゲ系」なる人間の行動の類型というのか、そういう類のものがあるようで、しかしニュアンスは分かるものの、明確な定義はまだないっぽい。「シバキアゲ系」について、私が感じたニュアンスでいうと、あらゆる問題に対して、努力と根性で立ち向かおうとするというか、それだけなら別に問題ないけれども、「努力や根性が足りない!(自分から見て)」と他人を責める傾向がある。あくまで「自分から見て」「自分の基準で比較して」なのが厄介で、「俺に言わせればそんなの甘えだね。自分だけ楽しようとしてるんだろ」というような。これって実のところは、「俺は苦労してるのにお前が苦労しないのは許さん」「俺もガマンしてるのにお前がガマンしないのは許さん」と言っているように見えるし、実際そう言いたいんだろう。「みんなで苦労しない」あるいは「みんなで楽をする」というのはなさそうだ。「みんなで苦労する」「みんなでガマンする」のが好きみたい。なんというかな、自分が受けた(と自分が思っている)仕打ちを他人にも受けさせないと気が済まない、という意味で、ハラスメントが連鎖するメカニズムと似てる。体育会系の部活での先輩から後輩への理不尽な仕打ちが連鎖するとかとも同じ。あと、「仕事がない」という問題について、「仕事を選ばなければいくらでもあるはず」「田舎でもどこでも行けばいくらでも仕事はあるはず」「給料低くても切り詰めたら生きていけるはず」というのをよく聞くし、実際に自分の耳でも聞いて驚いたことがあるが、そのように言うひとは”自分がそういう状況になったらどうだろう”とはまったく思っていないし、なにより、自分はいままで「ちゃんと」やってきたからこそ仕事があるのであって、仕事がないのは「ちゃんと」やってこなかった”報い”であるから自業自得である、と考えているように見えた。言い換えれば、「ちゃんと」やってこなかったひとが楽して生きていけるのであれば、自分がいままで「ちゃんと」やってきたのはなんなのか?と考えているような。「ちゃんと」やってこなかった(とそのひとには見える)人がいろいろ文句を言うのが気に入らないし、そればかりか公的に助けられるのが”ズルい”ような感じがするのだろう。「生活保護」に対する反応にも似たようなものを感じる。なんというか、あなたが「ちゃんと」やってきたのはすばらしいことだし、それはそれ自体ですばらしく、他人と比較して揺らぐものではないから安心してくださいよ、と思うし、なによりそんなに他人に厳しくなくてもよくない?とも思う。気持ちはわかるけど、いや分からんけど、なにが分からんというと、自分が「ちゃんと」やったか・やっているかどうかが、他人との差によってしか証明されないと思っていること自体がまったく意味が分からんけど、つまり「ちゃんと」してないひとが不利になるようになってないと、「ちゃんと」している自分が報われないではないかという気持ちがさっぱり分からない。「自分が苦労してるのに、アイツは楽をしている」と気分が悪いんだろうけども、そもそもそれを気にしたところでなんになるのか。周りと自分との比較に頼りすぎていないか。なによりその「アイツは楽をしている」と判断する根拠はあるのか。自分の勝手な判断ではないのか。相手の状況や事情を分かった上での判断なのか。いやいやそもそも誰かが楽をしているのがなぜ悪いのか、嫌なのか。別にいいんじゃないのか。なんなら、みんなで楽できるようにすればいいんじゃないのか。だいたい自分の「苦/楽」の基準で他人にどうこう言うのに正当性はあるのか。小学校のときの、クラブを休んだらサボったと責められるから休めない、みたいなのを思い出す。小学校の時点でもう「やりたいからやる」でなくなってるのがすごい。「みんなやるからやる」で、なおかつ「休んだらサボったと責められるから仕方なくやる」になってる。なんかもうこの時点で「やる」動機付けの仕方が間違ってて、それがそのまま大人まできてしまってるような。クラブを休むとサボってると責められるのと、無職だととサボってると責められるのはまったく同じ。苦しいこと・嫌なことは平等でないと嫌だ!という。また、どちらも個々の状況をまったく考えてくれないという意味でも似ている。