冷蔵庫にあったので生ハムを食べる。ワインと。ピザポテトがあったので、生ハムをのせて食べてみるが、合わない。食感が。今日は古書・雑貨 バートルビー店主(http://d.hatena.ne.jp/sialorr/)のおうちで打ち合わせ、というか、ほとんど雑談なのだけれど、自分と同年代とはいえ、私にはない経験がたくさんあるひとなので、とても面白い。ステーキとかつおのたたき丼をごちそうになる。肉食、とのこと。見た感じは草食系の美男子なのだけれども。帰宅して、すこし本を読み眠くなったので、ふとんで横になったら眠ってしまったが、姉ちゃんと妹が帰ってきた音は聞こえていて、呼ばれているのも聞こえていたが身体が寝ているので反応はできない。姉ちゃんか妹かは分からないけれど、部屋に来て様子を見て、横になっとんしゃっとか寝とんしゃっとかはわからん、とか言いつつ台所に降りていったのも聞こえている。様子を見に来たときに驚かそうと思って「うつぼ!」と言ったつもりだが、言えていなかったようだ。ついでに、近所の男子高校生だかなんだかが、大音量の音楽にあわせて歌っている下手な歌も聞こえている。23時ごろ、よなさんから電話。今後の計画のひとつについて。プロ志向、メジャーという仕組み、また、それらとは別にお金っていう仕組みについて、デザイン(というより、デザイナー)とアート(というより、アーティスト)の確執、などのはなしもする。プロ=仕事・専門・生業、という意味と、メジャー=有名・大規模、っていうのは、意味合いがまったく違う気がするが、わりとごっちゃになっている気がする。磯崎憲一郎「世紀の発見」を六甲のブックファーストでみかける。そういえば、この人の小説はまだ読んだことがない。あと、音楽って、その作者と楽曲が変な感じにくっついてしまっているもんなんだなということを、月曜日の彼女との会話(議論?)で確認した。まえに書いたような気がして探してみたが見つからなかったので、再度書くとして、ある友人が中島美嘉さんが嫌いだと言う。それに続けて、歌うまくないし、という。こういうのって、ものすごくよくあることというか、うんざりするほどよく聞くのだけれど、つまり、芸能人でもなんでもいいが、芸事にかかわっている人を嫌いだというのにその人の芸事のことを持ち出すのだ。俳優でもいい。なんとかっていう俳優が嫌いだとする。なぜか。演技うまくないし、という。私にはこれが釈然としないというか、理由になってない気がする。嫌いなら嫌いでいいのだけれど、なぜ、歌うまくないし、という必要があるのか。もし歌がうまかったら好きなのか。自分が中島美嘉さんを「嫌い」であることを、「歌がうまくない」というあたかも客観的事実のようなものを持ち出して正当化しようとしているとしか思えない。歌うまくない、っていうのが客観的な判断かどうかも怪しいものだけれど、それよりもなによりも、嫌い、という主観的・個人的な判断でさえ、自分の責任でやれないのか、、というびっくり。しかも、自分とはなんの関わりもない、芸能人に対する好き嫌いでさえ。いいじゃん、嫌いで。なんか癪に障るんでしょ。それでいいじゃん。それに続けて、歌うまくないし、とか言う必要ない。ストレートに嫌いっていうのがはばかれるから、歌うまくないし、とかいうどう考えても二次的な理由をくっつけているだけにみえる。もしそれだけで嫌いになれるのであれば、ものすごく人間って心の狭い生きものなんじゃないか。というか、そもそも自分になんの関わりもない人に対する好き嫌いを考える理由がまずよく分からない。好きか嫌いか、がなぜか自己表現になってしまう、という、ほんとよく分からない風習のせいなのか。好きか嫌いかなんてどうでもよくて、それを「どう」思うか、だけが問題だ。ああ、はなしがずれた、いやずれてないか。ミュージシャンに対する好き嫌い、その「人間」についての好き嫌いの根拠が、「音楽(性)」に求められてしまう、という事態は、好き嫌いの判断をするこちら側だけの問題でもない。そもそも、そういうふうにつくられているからだ。音楽は音楽だけで成り立っているのではなくて、作者のキャラクターも含まれている。そうつくられているし、そう送られている。これは、「なにかつくる」ということの結果として生まれたものには必ず「作者」がいる、ということにも関わっているのかもしれないが、とにかく作者と楽曲はわかちがたく結び付いている。歌とか声がかかわる音楽がとくに。生身の人間を連想させる音楽はだいたいキャラと音楽が結び付いている。管楽器=息がかかわるジャズとかもそうだし。ポップミュージックは言うにおよばず、匿名性の強いテクノとかだとマシかもしれないが、それでも作者のキャラと音楽ががっちり結び付いたものは多いし、そういうふうに流通させているフシがある。「作者」がいるから「楽曲」がある、という構造じたいは絶対になくならない。作者のキャラクターも込みで音楽、っていう、つくりかた、送りかた、たのしみかた、になっているので、キャラクターが気にいらない場合、音楽が嫌いだから、歌うまくないから、と言うことが可能になる。美術とかだと、このへんもうすこし距離があるというか、作者と作品の距離はわりあいあると思うけれど、ある若手アーティストが対談のようなもので、誰かの作品をみるときに、その誰か=作者の考えていることや歴史をみる、ということを言っていたので、音楽ほどではないにしろ、作者=作品という感覚は普通なことなのだと思う。でも私じしんは、音楽であれ美術であれなんであれ、作者の思いとか作者の歴史とか作者の生き様とか、ほんとにどうでもよくて、そもそも作者なんてどうでもいいし、作品とどう向き合うかだけが問題だ。作者なんてそのヒントにもならない。作者による自作の解釈とかもほんとどうでもよくて、そんなのただの一例としか思わない。作品を褒めること、すなわち、作者を褒めること、または、作品を批判すること、すなわち、作者を批判すること、みたいな考えは、あまりに能天気というか、なんか甘っちょろいというか、結局は人間を見てるんじゃん、と思うしかない。人間を見るのなら人間そのものを見ればいいだけで、いちいち作品、つくったもの・やってきたこと、を通して見るなんてまどろっこしいことはしたくない。だいたい、いくらでもウソをつけるじゃん、作品なんて。作品から人間がわかるとか、ほんとにそうなのか。そうなると、すぐ、「こういうのが、オレ(わたし)、好きなんです」っていう作品が出てくるし、そんな自己紹介的作品に、自己紹介以上の価値があるのか、いったい。ふつうに自己紹介してくれたらいいよ。私は、私と作品とのコミュニケーションを求めているのであって、作品を通した私と作者とのコミュニケーションは求めない。人間とのコミュニケーションはちょくせつ人間とすればよい。罪を憎んで人を憎まず、みたいに、創作の結果の作品と作者は分けて考える方が健全な気がする。いや、これはこれで優しすぎるのかもしれない。いや、でも、作品の批判が作者(の人間性)の批判のように受け取られがちな、あまりにナイーブな、現状よりは、作品と作者を分ける方がどう考えてもやりやすいと思うのだけれど。姉ちゃんと妹が「スマイル」というドラマをみていて、この内容で「スマイル」はないわーと思って、とにかくカタカナはないだろう。中井貴一さんが出ている。主題歌は、椎名林檎ありあまる富」。いかした曲名だと思うと同時に、また、、という苦笑いもある。実際、六甲のブックファーストでポスターをみたとき、苦笑いした。なんだろう、いちいち正面からぶつかっていく、かっこよさとかっこわるさ、なのか。いや、富について、富でできた土台(メジャーレーベルないしは音楽業界)の上で語らざるをえない矛盾か。それしきで内側から崩せるほど富でできた土台は弱くもないだろうし、「印が無い」ということが「無印」という印になるように、「流行に流されない」ということが「流行に流されない」という流行になるように、結局は「そういう」歌として、ちょっとしたガス抜き・刺激として、消費されていってしまうような気もして、わりとやるせないが、どうでもいいといえばどうでもいいし、そんな瑣末なことは問題じゃない。『何故なら価値は生命に従って付いている』という歌詞で思い出すのは、石川忠司さんがしきりに批判(非難や否定ではなく)する「人間の生命ほど大切なものはない」という俗説・物語のことだけれど、石川忠司衆生の倫理」「1 われら衆生」より

現代はポストモダンの時代だとさかんに喧伝され、その特徴は大きな物語、人類の進歩だとか民族の使命だとかの物語が成り立たなくなった点に求められる。しかし反対にポストモダンとは、「人間の生命ほど大切なものはない」という「物語」、そこへの帰依になんの労力も必要としない―何しろただ生きてりゃいいんだから―がゆえに、あらゆる物語の中でも最強と言える「物語」、いかにも安楽で怠惰な後期資本主義社会に見合った大きな「物語」が支配的になった時代ではないのか。

とはいえ、石川さんはこのあと、「人間の生命ほど大切なものはない」という俗説・物語=「生命」的人間=欲動的ダメ人間=衆生を突き詰めた果ての可能性・倫理について考える。椎名林檎さんの歌う『何故なら価値は生命に従って付いている』、『「贅沢は味方」もっと欲しがります 負けたって勝ったって この感度は揺るがないの 貧しさこそが敵』(東京事変「キラーチューン」)という感性は、石川さんのいう「衆生の倫理」に繋がるのかどうか。わからんけど。なんとなく、お金を払ってCDを買って、お金じゃないよね、そうだよね、なんて安直な解釈をして安心してそれ以上なにも考えず終わり、というやるせない結果になるんだったら、びみょうだなとは思う。お金がどうやこうや、人生の楽しみがどうやこうやの問題ではなくて、欲動的ダメ人間=衆生でしかない自分を引き受けきれるかどうかの問題な気がする。それをちゃんと引き受けもせず、個性個性言ったり、英雄になりたがったり、有名になりたがったり、認められたがったり、するのは人間の悪いクセなのでは。ちなみに、ダメな自分も受け入れる、とかいうのは、屈折・挫折したナルシシズム・うぬぼれ・自己愛、ないしは、屈折・挫折した承認欲でしかないと思う。ダメでもなんでもそれ以前にただの「自分」でしかなかろう。なぜ、ダメとかなんとか、そういう「形容詞」がないと不安なのか。先週土曜日にばあちゃんとこに行って、きょうだい3人で行って、すきやき。姉ちゃんが割り下をつくってからやったので、ちゃんと最初からすきやきの味。というのも、ラードというかあれはなんだろうか、肉を買うとくれる脂身みたいなの、を熱して油をしいてから、肉を焼き始め、適当に砂糖やらしょうゆやらを投入していくすきやきのやりかただと、最初は砂糖醤油で肉を食べているだけのようになって、野菜やなんかが入り煮詰まっていく過程でだんだんすきやきの味になっていくのだけれど、今回は割り下のおかげで最初からあの、いわゆる、すきやきの味。だいぶ前に実家で聞いたラジオで、ColdplayのViva La VidaにそっくりなJPOPがかかっていたけれど、あれはなんてバンドのなんて曲なのだろう。さっき、サカナクションとかいうバンドだったかと思って聴いてみたけど違っていた。あと、中田ヤスタカさんと私は同い年だ。いや、9ヶ月と15日、中田さんの方がお兄さんだ。あっ、いま気付いたけど、音楽を「みんな」と聴く、っていうのは苦手だ。ライブでの演奏者とオーディエンスの一体感とか、手拍子とか。中高生くらいの頃からウォークマンで聴くっていうスタイルだったからなのか。CDウォークマンとコンポが壊れたから、いまはラジカセとパソコンだけだけど。音楽を聴きに行ってるのになんで人間と関わらないといけないのだろう、とか思ってしまうから、あまりライブに行きたくないのだろうか。それと、なんにしろ、今後はipodとかのウォークマンに類するものを買うことはおそらくないだろうことは分かっていて、なんでかというと、ウォークマンって耳栓としての機能を超えて、「いつでもどこでも」自分の好きな音楽=自分の好きな音環境で過ごせる、というのが売りなんだと思うけど、これってつまり、他の人と共有している空間=公共の音環境のなかに、自分の好きな・個人的な音環境を強引に持ち込むってことで、ときたま見るのが、家族(お母さんとか)と一緒にいるにもかかわらずイヤホンをしている中高生の姿で、これはいったいなんなんだろう。「あなたと音環境を共有していますよ」という姿勢、他の人への配慮が、まったくない。むしろ、私の世界=音環境にあなたはいない、と宣言しているようなものだ。だから、電車のなかでイヤホンをしている人を見ると、あの人の「音環境としての世界」には私はいないのだな、と思う。だからといって、悲しくもなんともないけど。私の音環境としての世界には、その人もしっかりはいっているわけだし、別にそんなことどうでもいいといえばどうでもいいし。