あ、そうだ。複数の、なんていうのかな、ネット上の文章とかを投稿できるサービス、ブログとかツイッターとかフェイスブックとか。必ずしもSNSというわけではないから、総称してなんと呼ぶか分からないけれども、ともかくそのようなプラットフォームでなされたなにかしらの投稿を、3つ以上のプラットフォーム上で連携・転載されるようにしておけば、たとえば、はてなダイアリーからフェイスブックフェイスブックからツイッターツイッターからはてなダイアリー、みたいに、ずっと無限に投稿の連鎖が起きるのかなと思ってもみたが、たぶんならない。さすがに、ならないようにしてあると思う。途中ですこし改変されて最初の投稿と別だとみなされれば、なるかもしれないけど。もし実現すれば、どんどんサーバーの容量を食いつづけるインターネット上の癌みたいになるのかな。あー、だいたい分かってきた。前にも書いたけど、なにかの件について質問・確認すると嫌な顔をする人というのは、同時に「言った/言わない」問題を起こしやすい人でもある。というか、「言った/言わない」が問題ではないのに、なんでもすぐ「言った/言わない」問題にしてしまう人。たぶん、質問・確認されると「あなたはそれをちゃんと言いましたか(指示しましたか)?」と言われている(自分のせいにされている)ような気になるのだろう。だからなにかを質問・確認するとそれにはろくに答えず「言った!言った!」を繰り返す。言ったか言わないかではなく、あなたが言ったことはこういうことでいいのですか?と聞いているのだけれど、やたらに「言った/言わない」にこだわる。言ったのは分かってるんだから、その言ったことについてこの理解で正しいか?と聞いているのに。そもそもなぜこれを聞かないといけないかというと、相手と私との「言い方の仕組み」が違うから、どういう意味として言ったかがなかなか一致しないことが多く、そうなるとどうしても確認せざるをえない。もちろん誰でも自分は「自分の言い方」で十分に理解できるが、他人が「自分の言い方」で理解できるとは限らない。そしてそれは別に誰のせいでもない。もちろん、相手の「言い方の仕組み」自体を覚えておくという方法もありはするけれども、「言い方の仕組み」が大きく違っている場合、それはリスクが高い。そもそも自分の言い方ではないものなので、なかなかうまくいかない。せいぜいが、あの人がこう言ったときはこういう意味、くらいの限定的なものとしてしか役立たないだろう。あと、最初に、質問・確認されると「あなたはそれをちゃんと言いましたか(指示しましたか)?」と言われている(自分のせいにされている)ような気になるのだろう、と書いたが、そもそもなぜこういう風に思うのかもよく分からないし、こういう風に「それは自分のせいかどうか」を気にしていると、元々の目的がよく分からなくなることが多い。誰のせいかはどうでもよくて、まずは問題が解決したらそれでいいんじゃないかと思うが、なによりも優先して「誰のせいか」を確定することにこだわってしまうと余計よく分からなくなる。「自分のせいかどうか」を気にしすぎると、「自分のせいじゃない」ことがはっきりしないと安心できなくなるんじゃなかろうか。自尊心が高いのかなんなのかわからないが、そりゃ誰でもしくじりたくはないだろうけれども、別に多少しくじったとしてもどうということもないし、物事が進みさえすればどうでもいいと思うのだけれど、それではおさまらなくなるというか。「しくじりたくない」の意味も違うのかもしれない。なんのためにしくじりたくないかといったら、しくじったらその物事が滞るからいかんなあというのが、まあひとつあると思うのだけれど、いま私がつらつらと文句を言っているような行動様式においては、どうもこれが「しくじったら他人に弱みを握られる!他人からの評価が下がる!」みたいな感じになっているようなフシがある。あとひょっとしたら「他人からの評価が下がる」っていうよりも、「自分による自分の評価が下がる」ことの方が嫌なのかもしれない。向上心と自尊心が変な繋がり方をしているというのかどうか。自分も他人もすべて自分モノサシによる「評価」を軸に見てるというのかどうか。評価の軸が自分モノサシなのも問題とはいえ、そもそも「評価」・「格付け」の目で自分あるいは他人を見るのは、しんどいんじゃないかなあ。まあ、ごちゃごちゃ言われても、負けたが勝ちで名を捨て実を取ったらいいんだろうけど、やっぱり疲れるのは疲れる。と、さんざん文句を言っているけれども、とりあえずは、今まで書いてきたような行動様式をとることで自らの置かれた環境に適応した人は、その人なりに適応しようとしてのことなのだし、その判断やその人自身に文句を言うのではなくて、そういう行動様式に文句を言うのであれば、なんかまだバランスがとれるような気がしなくもないのですこし書き直したが、結局は一緒だと思う。ある行動様式に文句を言うのと、その行動様式を採用している人に文句を言うのと、実際にはさほど違いはない。