そして、私は直接的なやりとりにほとんど期待していなくて、きちんと、その人そのものと、その人のいうこと、を分離して直接にやりとりするぶんには問題ないのだけれど(その人そのものとではなくその人のいうこととやりとりする、という意味で間接的、というかその人そのものと直接やりとりするなんて幻想以外のなにものでもないのではなかろうか。だいたいその人そのものってなに?)、その人そのものと、その人のいうことが混ざってくると、とたんに、語りの場の主導権争いとか、自説(ひいては自己)の正当性の主張とか、一方的な質問攻め(という一種の非難)とか、語られる内容とはほとんど関係がないある種の欲求・欲望に向かって語りを費やしてしまいがちで、分かってはいてもついついやってしまうもので、そういうときには凹みはしないけれども、なんだか不毛だったなあ、とか思うわけで、ドゥルーズではないけれど、内容によっては(なんらかの解決を直接に目指すものではない場合には)、といってもほとんどだけれど、ほんと誰かと中途半端に議論したり意見を交換するよりも、自分ひとりで考えていた方がマシというか、もちろん誰かの考えは常に欲しているけれども、直接私に語られたものとして聞きたくはないというか、不特定多数に語られた本とか文章とか語りとかで欲しい。直接に誰か特定の人に向かって語っているといつのまにか自分に向けた独り言になっていたりするわけで、それよりも、自分に向けた独り言が結果的に不特定多数の誰かに向かって開かれていくことの方が希望が持てる。あと、あんまり関係ないけれども、なぜゆえみなさん、なんでもかんでも自分以外の「誰か」(人でなくても)のせいにしたくなるのだろうか。たとえば、嫌だなあ変だなあと思う事があっても、嫌だなあ変だなあと思う自分の感覚というか判断の基準について考えてみたら楽しいだろうし、嫌だなあ変だなあで終わったらその体験がもったいないというか、嫌だなあ変だなあで終わってしまって、その嫌な変な気持ちをどこに向けたらいいか分からなくなるわけで、それを自分に向け変えてみるのがいちばん簡単で楽だと私は思う。それでも嫌なひとは、『ひとつのこらず君を悲しませないものを君の世界のすべてにすればいい』し『そして僕は途方に暮れる』しかない。あくまでものの喩えだけれど。(大澤誉志幸「そして僕は途方に暮れる」より) 本物かと思った。

とうとうマルクスの「資本論」に手を出してしまう。といってもいまのところは、第一部第一篇「商品と貨幣」にしか手を出さない、と思っていたら六甲の古本市場でうっかり山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男「マルクス資本論入門」というのを見つけてしまい、さらに楽しい。商品ってなに?お金ってなに?労働ってなに?っていうのを納得しないまま生きるのはまずい気がしてきたのと、経済について無知、というか、なんとなくの、いまの時代、つまり資本主義の時代?の共通理解(いわゆる常識、フツウの感覚と呼ばれるもの)だけしかないのもどうかと思っていた矢先なのでちょうどいいかもしれない。六甲の古本市場には諏訪哲史「アサッテの人」が11冊あって、さらに100円コーナーには片山恭一世界の中心で、愛をさけぶ」が72冊もある。100円コーナーのうえの方にずらっと水色の背表紙が並んでいるさまは壮観ですらある。