すくなくとも『私は私の主張をしたいわけではないというと少しウソになるかもしれないけれど、少なくとも私は自分の主張にそんなこだわりはないというか、執着はないので、それは違うよ!と言われて、おおそうか、と思えば、いくらでも改宗するし、分からない、と言われればできる限りことばを費やしたい。むしろそうやってことばを費やすことで、自他ともになんらかの変化が生じていくことが楽しいので、「で、」なんだろう。』っていうのは完全に余計というか、あの文脈でいちいち付け足すことじゃないというか、惰性、じゃない、慣性の法則?だんだんと私の思う、宙吊りにまつわる「強弁」とは「否定神学」のことなのかと思ってきたりもするけれど、なら「否定神学」(的思考)」のなにが気持ち悪いのか。別にいいんじゃないのか。あと、昨日書いたことはとりあえず間違っていて、自壊するためのテクストが自壊させるのはそのテクストの依って立つ基盤(様式)であって、テクストの内容自体は別に自壊しない。なので「脱構築」という出来事の実践の場として、テクストを記すことや、それ以外のこと、を選ぶのは、別におかしいことじゃない。そして昨日の「で、オチ(情報・意味)は?」という部分をすべて「だから、なに?」に換えた方がよいかもしれない。というか、該当箇所一帯に書いていることが自分でもよく分からない、というより、なんとなく違う気がするので、いったん忘れようー。馴染みのないことに乗せてものを考えようとするとわりと怪しい展開になる。ほいで、「否定神学」的思考ってなんなのか。ひとまずいま思っているのは、証明できるかできないか決定不可能な事柄をそれがまさに証明できない「かもしれない」ということにおいて存在しているとすること。またはそれを信念として持ってしまうこと。どちらかといえば、後者の方が気になる。宇宙人はいるかいないか分からなくて、分からないのだからいるかもしれない、と思うのは自然なことだろうけれど、分からないものは分からないという状態に留まらず、分からないのだからいてもおかしくないだろう、いや、いて欲しい、というふうになるとけっきょく信念の問題、信仰の問題になる。「あなたは宇宙人を信じますか?」けっきょく信念の問題、信仰の問題になる、というふうにちょっと否定的なニュアンスで書いたのは、信念や信仰は議論の対象にはなり得ないからで、とはいえ信念や信仰が議論の対象になり得ないのは、信念や信仰の特性や性質なのではなく、それが議論の対象になり得ない場所に置かれるからだ。ということは、議論の対象にされたくないことはそこに置いてしまえばいわけで、それはちょっとどうなの?と思ってしまうのだけれど、どうなのだろうか。米子君や川口君やみつ君や平間君や直嶋君(はちょっと違うのかも?)や他にもたくさんいる、私を含む私と同世代のひとたちに共通するのは、前にも書いたけど、そしてそこの箇所を探して見つけられなかったけど、私を含むいまのひとたちにおそらく共通するのは、演奏者(作者)の意図とか意志とか主体性への強い疑いで、とここまで書いてきて、はてなで日記を書き始めるまえ、まだいちいちサイト上でテキストを更新していた頃に書いたことを思い出して、たしか意図がどうとかいっていて、そのことについて東君から掲示板への書き込みがあったりして、というわけでむかしのhtmlデータを探してみたら見つかって、日付は2001年8月7日。

8/7
意図して意図しないことと
限られた中での全ての可能性。

これが記された文脈はといえば、たぶんこのとき、コンピュータ上で生成される乱数とそれによる音の運動について考えていて、乱数を用いることを「意図して意図しないこと」と表現し、その「意図して意図しないこと」の枠内で起きる全ての可能性について考えている。(抽象的な観念としての)乱数=「かもしれない」なわけで、「かもしれない」という事実そのものを積み重ねることで、「かもしれない」そのものに触れたいと思っていたのだけれど、どうにもそのアプローチが失敗のような気がして、それは、「かもしれない」が事実となった時点で「かもしれなかったがこうなった」に変化するからだ、たぶん。だから事実を積み重ねても「かもしれない」それ自体に触れられるわけではない、という結論に至る。今日ブックファーストでみかけた蜂飼耳「秘密のおこない」の装丁が、おっ、これは服部一成さんだ、という感じで、まず奥付を見て、次に目次の前あたりをめくってみたりしたが探し出せず、二回目に目次の前あたりをめくってみたときに、服部一成さんの名前を発見し、ほっと一息。たまーに服部さんっぽいけれども違うのがあるからだ。別に服部さんだろうが誰だろうがいいのだけれど。「秘密のおこない」で検索して表紙の画像を見てもらえば分かるのだけれど、今回のはわりとしっかりしているというと変だが妙なグラグラ感はすくない。表紙の、にょろっとしつつ部分的に尖がっている図形は、尖っている部分=蜂、にょろっとした部分=耳、を表しているとかいうのはどうでもいいことで、なにかがなにを表している、という前提からその起源ないしは原因・理由を導きだせ得る、とまではいかずとも起源や原因・理由がしっかり存在することを信じられると安心する、という思考の様式にはやはりどうしても限界がある。昨日タワレコで、梅田の丸ビルのタワレコで試聴した田中フミヤ 「UNKNOWN 3」は自身が立ち上げた新レーベル「SUNDANCE」からリリースとのことで、op.discのコンピ「hub solo&collabo」の第2弾、「hub solo&collabo 2006-2008」も12月に出るらしい。田中フミヤさんのブログによると、『2006年から2008年にかけて12inchをリリースしたアーティストのオリジナルとコラボ曲集が一枚、今までop.discでリリースされたこのシリーズの12inchからの選曲DJ MIX CDが一枚。DJ MIX はBERLIN在住のDen。』とのことで、つまるところ、音楽に限らず芸術において、その制作において、意図しない、ということは不可能なわけだけれど、それがなぜかというと、「意図しないという意図」から先に行けないからで、というより、芸術が芸術である条件のなかにはおそらく「なんらかのかたちで(創造であろうと受容であろうとそのどちらかだけであろうと)人間が関わっている」ということが含まれていて、このことを考えれば「意図して意図しないこと」や演奏者(作者)から意図とか意志とか主体性を引き剥がすという志向性が無限退行というか、どこまで行っても落ち着くところのない不可能なもの=アポリア?であることが分かるけれど、と書いてきてちょっと疲れたのでyoutubeで音だけ聴こうと思い、youtubeにて「radiohead」と検索してみたところ、レディオヘッドのいろんな映像をホットペッパーのCMの音声に合わせて編集しているのがあって、これはすごい。あと、この前の来日公演の隠し撮りというのか観客席から普通のカメラで撮っているとおぼしき映像がたくさんあって、音はもちろんものすごく悪く、もうすこし音を割れさせればメルツバウみたいになるであろう。こんなん見てどうなるというのか。ということはこんなんアップしてどうなるというのか、という問いも含まれるけれども、行けなかった人がその雰囲気を知るのによい。というより行けなかった人は行けなかったのであって、行けなかったことに変わりはない。フランスの親父バンド(と呼んでいいものかどうか??)が歌うradiohead「creep」。

それで、さきほど、『「意図して意図しないこと」や演奏者(作者)から意図とか意志とか主体性を引き剥がすという志向性が無限退行というか、どこまで行っても落ち着くところのない不可能なもの=アポリア?』と書いたけれど、だからといって、こう書いたからといって、その不可能なものへの志向が無意味である・ナンセンスである、というわけではなくて、私が問題にしたいのは、そのような思考はかなり否定神学的である、ということで、といっても、さらに繰り返すけれど、だからといって、その不可能なものへの志向が無意味である・ナンセンスである・よくないことである、というわけではない。私が問題にしたいのは、否定神学的な思考は両刃の剣というか、けっこう危険なんじゃないか、ということで、さっき書いたように、その志向はややもすると、「問い」自体がいつのまにか自己の信念・信仰(論理ないしは神秘性と言い換えてもいいかもしれない。ふつうは等置しないようなこのふたつが等置できてしまうのは、それらが信念・信仰であるから、ともいえるのかしら)に変わってしまって、その信念・信仰のなかに自閉してしまいかねない。その自閉している「問い」の空間というか形式・様式というか、そういうもの以外の論理・様式と一切の関わりを持たない、その他のいろいろなものと何の接合もなされない、というかそのような接合をこそ拒む、ようになってしまうかもしれない。つまり「問い」そのものが絶対化されてしまい、「問い」についての「問い」を拒むようになるかもしれない。一方で、「どこまで行っても落ち着くところのない」こと・「問い」について問い返すことに耐えることさえできれば、つまり、そもそも徹底が不可能であること・どこかで諦めざるを得ないこと、があらかじめ分かっているとしても、「不可能なもの」を問い続けることが、「不可能なものを志向する」という目的に変わらなければ、なにかしらあるんじゃないか。という思考の連なり自体がもうすでに否定神学的な気がするなあ。最後がどうしても「なにかしらある」に行き着くところとか。いったいなにがあるのか。なにかがあるのか。なにかがあるかもしれないのか。あるかもしれないなにかに向かってなにをするのか。あるかもしれないなにかに向かっているからといって、なにをしても、あるかもしれないなにかに向かっているわけではないかもしれなくて、そのあたりはどうなんだろうか。これはなにより私自身の問題で、「く、くるしい」という件名のメールが親父から送られてきて、それはけっこう前だけれど、うちの猫がヘッドロックされている(たぶん母ちゃんに)写真が添付されていた。現にhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20050716において、

他人と同じ土俵で自分なりのものを作るより
自分も含め誰も分からないものの方がいい。

と私は記していて、明らかに「自分も含め誰も分からないもの」は不可能なわけだけれど、どこかの時点では一時的に可能なのかもしれないが、結果的には「不可能なもの」について語っていて、これはこれでなにかの足しにはなるのだろうけど、とにかく、こういう語り方というか思考の様式にはある魅力がある。とりあえずなんだかかっこいい。かっこつけ、ともいう。というわけで、「問い」の絶対化に注意しつつ問われるべきは、その「問われ方」なのだな、でもそれはそれでなんというか、なんだかな、という感じもなきにしもあらず。それは、無限に細部をほじくりまわすことになりはしないか。出た、「無限」。はてなキーワードの「否定神学」の項によると、否定神学とは

神は言葉の能記等では完全に把握することはできないとして、言葉の「否定の無限退行と無限の相対化」によって、唯一神の唯一さを論じた神学、教理。

『言葉の「否定の無限退行と無限の相対化」』っていう言い方は分かりやすいような。いまラジカセから聞こえるのは、というかそういう言い方だとあたかもラジオで流れているようだけれど、CDラジカセに入って回っているCDはMiles Davis「Sketches Of Spain」。