たとえば、私がやっている(やっていた、だけれど。ibookが壊れたので、というより、なんとなくだけれども、去年いっぱいで録音をやめてしまった。でも配布はぼちぼちやっている)、いろんなところに行ってコンピュータのハウリング音とそのへんの音をテープレコーダーで録音しその模様をポラロイドで撮影しそのカセットとポラロイドを無記名で不特定多数のひとに向かって配布する「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」が、なぜ無記名なのか。それは、たんに、私が、私と誰かのやりとりを欲しているのではなく、誰かとそのまた別の誰かとのやりとりを欲しているからで、分かりやすくいうと、そのカセットとポラロイドを持って帰った対価(ないしはエネルギー)は、次の見知らぬ誰かに向かって払って欲しいということで、私は誰からも褒められたくないし、誰からもお金をもらいたくない。そもそも誰がどういう目的で持って帰るのかもよく分からない。けれど、ギャラリーや本屋さんなどに置いてもらうと、確かに誰かが持って帰る。そこに希望がある。というようなことを、いま、yomayomaさんの「女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ」2008-06-26「[考えるのの]次のターン」http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080626 を読ませてもらって思った。「作り手の供給過多」に対してどう接するか。というより「どう接するか」というふうに外側から問うこと自体がおかしくて、私自身がいわゆる「作り手の供給過多」の恩恵にあずかっているわけで、そこを忘れてはいけない。でも「作り手の供給過多」という事態も裏を返せば、「すべてのひとが作り手」になる可能性があるわけで、どっちかといえばそっちに行った方が断然いい。すべてのひとが作り手になりそのすべての成果をあまさず連結可能だと考えることができるならば、希望もみえる。いや、SF的なはなしではなくて、実際に誰かの何らかの成果は常に他の誰かの何らかの成果に乗っかっている、というか、それなしではありえないものであって、その意識をもうすこし多めに持つだけでよいのではなかろうか。とはいえ、おそらく意識してなにかを作るひとは「個」にこだわるひとばかりだと思うので、実際にはこれも難しい。どこまでが誰かの成果でどこからが自分の成果か、という線引きを厳密にしはじめると、それに伴って所有の権利が顔を出す。だいたい著作権なるものでなにを守っているのか。生産の手段?賞賛を得る権利?うーん、でもいま書いたようなことは、経済の内部では存在しえない、というか、「つくる」の意味が変わってくる、というか、ぜんぜんまったくこれっぽっちもお金が動かない。それがいいことなのかわるいことなのか。それもよくわからない。ひょっとしたら資源だけが無駄に消費されてしまうだけかもしれない。ではどのようにして、食べて寝て着て遊ぶエネルギー(あえてお金とはいわない)を得ればいいのか。日付は変わって27日。三宮にて散髪。晴れていたので久しぶりに自転車で。初めての美容室で初めての美容師さんだけれども別に緊張はしない、というか、なるようにしかならないから、緊張してもしょうがない。歳をとると親や兄弟と仲良くなるとか角淳一さんのはなしとか秘密基地のはなしとかモノをつくってもそのうち誰も買う人がいなくなるんじゃないかとかそうなると宇宙人に売りつけるしかないとかシャツを欲しいからといってそれを大根と交換してくださいって言っても無理だとかお金はあらゆるすべての商品と交換できる商品だと書いてありましたと山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男「マルクス資本論入門」の受け売りとかそういうはなし。髪は目論見どおり短くなるけれども、もうすこし短くてもよかったかもしれない。きのう妹と、上野樹里みたいにしてください、って美容師さんに言ったらどういう顔するだろう、とか言っていて、それを思い出したけれど、そういうことをきのう妹と言ってたんですよ、というのを言いそびれた。このままただひたすらなにかをつくりつづけてもしょうがないんじゃないか、回らなくなるんじゃないか、というのは割とみんな思っていることのようだ。