今日三宮へと向かう阪急電車のなかで読んだ、ジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990の対話」『Ⅳ 哲学「哲学について」』のこの一節

哲学は読者に恵まれないわけでも、社会に普及していないわけでもないと思いますが、いま哲学が置かれた状況は、思考がいわば地下にもぐった潜行状態に、あるいはノマドの状態に相当するのです。私たちにとって唯一可能で、現在の世界に申し分なく適合する伝達のあり方は、瓶に伝言を詰めて海に投げる、というアドルノのモデルか、ひとりの思想家が矢を放ち、別の思想家がそれを拾う、というニーチェのモデルでしょう。

におおっと思う。私のことに引き寄せて考えてみたときに、前者は、いろんなところに行ってコンピュータのハウリング音とそのへんの音をテープレコーダーで録音しその模様をポラロイドで撮影しそのカセットとポラロイドを無記名で不特定多数のひとに向かって配布する「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」に当てはまり、後者は、ネット上での読み書きに当てはまる。ような。程度の違いこそあれ、モデルとしては近いような。ああ、でも「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」を置いてもらっているのはギャラリーとか本屋さんだから、海に投げるほどではないか。届くさきがおおまかにではあっても選択されているという意味で。でもどちらも、誰かがそのうち拾ってくれるだろー、という希望に支えられている。言い換えれば、それ以外のものには一切支えられていない。あと、「がばいばあちゃん」などで有名になってしまった「がばい」について、おお、そうそう、という記述をぐうぜん見つけたので、佐賀県が出している季刊の情報誌「ZANZA crossload saga」『コラム 日本人の誤解 がばい誤解されている”がばい”』より

「がばい」とは、言わずとも知れた佐賀弁。だが、どういう意味を持つものかが問題なのだ。どうやら世間では「がばい=すごい」と解釈されているらしいが、これだと「がばい」という語は形容詞となる。しかし、本来はそうではない。佐賀で言う「がばい」は「とっても」という意味の副詞なのだ。

だから、「がばいばあちゃん」というとき、「とってもばあちゃん」というふうになってしまうわけで、そもそもこの言葉が出てきたときから、??と思っていたはずだ、佐賀県のみなさんや佐賀出身のみなさんは。田代まさしさんとか江頭2:50さんとか優木まおみさんとかはなわさんとか。そして、佐賀県のみんなが分かるかどうかは分からないけれど、私が中学・高校の頃に友達みんなでよく使っていたのは「あらか」ということばで、これはたぶん「荒い」がなまったものなのだけれど、荒い=激しい=すごい、というような意味で使われていて、前後の文脈によって良い意味にも悪い意味にもなる。なにかこうすごいことを目撃した場合は、「なんあい、がばいあらか!」というふうに使う。訳すと「なんだあれ、とってもすごい!」という意味。