なんというかな、ネット上のテキストの怖さっていうのは、間接と直接が曖昧であったり、パブリックとプライベートが曖昧であったりすることによる、自分に対する噂をうっかり聞いてしまったような感じになるところにあるような。発言者、発信者は、独り言のつもりだったり、誰でもない誰かにしゃべっているつもりだけれども、それを受け取る側は公共のものとして受け取らざるをえないので、対面でしゃべったり、一対一のメールなんかであれば問題なさそうなことも、ネット上のテキストを介して見ると、公(おおやけ)の噂とか陰口のように見えてしまう、のが恐ろしい。ネットという第三者に向かってしゃべっているので、噂に見えるというより、しゃべる・発話する・情報を発する構造としては、ズバリ噂なんだけれども、ツイッターであれば、「誰が」、「どの範囲で(誰と誰と誰と誰のあいだで)」、しゃべっているのか分かるから、こういう怖さはすくないのかもしれない。誰かに対する言及は誰かに直接言う、もしくはそういう体裁でやる、くらいしか対処法がない気もする。それを独り言のノリでやってしまうと噂とか陰口のように見えるんだろな・・。身に覚えがあるな・・。文字だけのやりとりは食い違いが生じやすい、というのはよく言うけど、それとは別にネット特有の「見え方」もだいぶ関係ある。といっても、直接言っている、もしくは、気付くのを承知のうえでやったとしても、噂のように見えたりもしそうなので、それはネット上のテキストの性質だから実はもうどうしようもなくて、気にするな!ということかもしれない。慣れろ!というか。慣れるのかしら。あとそれらの問題とは別に、「王様はロバの耳」のようにネットにテキストを投稿するのは、やはりものすごく危険なのかも。それを見た誰かがどう感じるかという問題もあり、そもそもそれよりも、自分にかえってくるフィードバックの問題もあり。よいフィードバックもあればわるいフィードバックもあり。こういうの、ネットでのテキストの書き方、みたいなことで、ネットでのテキストとしてどっかに方策が落ちているんだろうなあ。やはり、ネットでのコミュニケーションの仕方はむずかしい。ノリが分からんというか。でも、以前のタッタカさんとのやりとりは、ぜんぜん噛み合なかったり誤解したり無理解だったり(無意識に)もするけれど、濃密でたいへん楽しく勉強にもなり、それはやっぱり作法というか、まず尊敬があり、そこから始まっているからのようにも思える。まえに書いたかもしれないけれど、吉村光宏さんと私はどこか似ていて、吉村さんと河野さんもどこか似ていて、吉村さんとタッタカさんもどこか似ていて、だからタッタカさんは私と河野さんに興味がある、とおっしゃるのだろうなと思っている。似ていて、といっても、なんか具体的なもんというより、ノリだと思う。吉村さんはニーチェを読んでいて、だからとは言わないけれど、なんかニーチェっぽい、ノリが。怒りのひと。河野さんもけっこう怒りのひと。たぶんタッタカさんも。でもそれを言うたら、わりとみんな怒りのひとかもしれない。怒りというか反発が原動力というか。みんなといっても、私の周りだけれど。でも、反発が原動力、っていうのは、もう古いよ、みたいになってるような気もする。とはいえ、エンツォ・マーリも言っていたが、というふうに虎の威を借りるけれど、怒りとか反発もやはりエネルギー源のひとつなのは変わらないと思うけど、怒りとか反発の質みたいなのは問題になるかも。自分のことをよくよく考えてみると、それはない!とか、それは嫌だ!っていう動機でやっていることの方が多い気がする。たいていは、その「やり方」はない!っていうものかしら。でも、その、それはない!とかそれは嫌!っていう反発の質がみみっちいというか、けっきょく個人的な好き嫌いなり考え方の問題だったりして、たいへんしょうもないから、エンツォ・マーリを引き合いに出すのはエンツォ・マーリに失礼だ。そういえばこのまえ大阪に来ていたっぽい。それはない!とか、それは嫌だ!っていう動機でやっていることの方が多いということは、こうすると楽しいぜ!とか、これは美しいぜ!っていうのはあんまりないってことになる・・。それだと力が出にくいのか・・。それはない!とかそれは嫌だ!っていうのは勢いでできるから、みんなに同意を求めなくてもできるわけで(できるできないはさておき勢いでみんなの同意を無視できるということだけれど)、でもだからといって、同意を求めないのもちょっとどうかと最近は思いつつ、かといって同意を前提にやるのもなんか「オレ(の考え)を理解してください」みたいで気持ち悪いし、そこらへんはずっとよくわからん問題なのかもしれない。