コープで買ってきた「赤ワイン 甘口」を飲みながら本を読む。グリンプスのミックスCDを聴きながら、と思ったら、いま終わった。そしていまはこれを書いているので、本は読めない。適度に甘いのでよい。赤玉ポートワインやったかな、そういう名前のわりと昔からある、そしてそのポスターが有名な、ワインはけっこう濃厚に甘い。そして意外に酔う。青木淳悟「このあいだ東京でね」にはいっている「このあいだ東京でね」を昨日の寝る前に読み終わる。「マンションの募集広告」をみている「私」の妄想オチ、なんてことにならなくてよかったよかった。「不動産にまつわる事実(でもあくまで主観的な)」とか「不動産にまつわる噂」とか「不動産にまつわるよくあるはなし」とか「不動産にまつわる風景(マンション広告の写真)」とかがもわっと境目がなく繋がってしまうのはなんなのだろう。言語の力か人間という一種のはたらきのなせるわざなのか。河野円さんのホームページができたらしく(http://www.i-ma-wav.com)、ちょっとそのまえに書いておきたいことができて、いまキットカットのカスタードプリン味を食べているのだけれど、キットカットはスイカ味とかカスタードプリン味とかほうじ茶味とかつくらずにスタンダードなあのキットカットだけでいいのに。いまサイトをみてみたら、しょうゆ味とかあるらしい。限定だけど。変な味のやつは変だとおもいつつも1回は食べてみたくなるけれど、こういうのはその「1回は」を当てにしているのはみえみえで、限定だし、やっぱり乗せられているのだろうなと思いつつもやっぱり気にはなる。でも気にしなければ気にはならない。河野円さんのホームページを見ていて面白いなあと思ったのは「circle」というページで、その名のとおり(?)、河野さんとゆるやかな繋がりがある人々、のライブ情報を載せてある。けっこう前に河野さんのブログで、イベントとかをやっても、いわゆる「そういう」音楽をやっている人しか来なくて、その「狭さ」が嫌だったけどよく考えたらそれはそれで当たり前だ、ということを読んでそうだそうだと思ったのを憶えていて、いま河野さんのブログをいろいろ検索してみたりしたが芸当箇所は発見できず。あ、該当箇所だ。そういうある範囲、ある集合のなかで、見たり・見られたりという循環を繰り返す、というのが、たぶん基本にあって、これはもちろん見方によっては「狭い」コミュニティだ!ということにももちろんなるけれど、なんらかの同じ傾向・志向を共有する(共有の度合いはいろいろであろうけれど)、コミュニティなしに社会的な意味での「表現」ができるかというとちょっと不可能な気がする。「そういう」音楽のライブに「そういう」音楽をやっている人しか来ない、っていうのは、単に「やってみないと」問題意識の共有が難しい、ということも関係あるし。とはいえ、「お客」との関わり方、という点では演劇とか美術の方がより意識的であるような気はする。よくもわるくも、ではあるだろうけれども。もしも「コミュニティ」ということばにある「狭さ」とか「排他性」がどうしても気になるのであれば、複数のコミュニティに所属してみる、とか、常にコミュニティを渡り歩くとか、いろいろまあ方法はある。自分自身のことでいえば、なんとなく後者のような気がする。よく言えば、一期一会。わるく言えば、通り魔。旅の恥は掻き捨て、とは微妙に違うけど。自分のやったことは自分の過去として必ず残るから。そういう意味では、「小田寛一郎」という表記が、「小田寛一郎」なる人物のやったことを「過去」として蓄積していく入れ物になっているのだけれど、もし仮にその表記を無くしたとしても、実際の私の「顔」や「そういう人物が現実にいることそのもの」が入れ物の役をするだろう。最近はわりといつも初対面のひとたち(お客も含め)のなかでなにかやることが多くて、したがってなにか明確な共通理解があるわけでもなく、あるかないかさえも定かではなく、でもそういうところの方が刺激的なのは、なにもかも分からないし予想もつかないし予想や計画が意味をなさないからだと思うのだけれど、そしたらいっそのこと表記=過去の入れ物としての「小田寛一郎」を廃棄してしまっても面白いかもしれないと思っていて、より具体的には、なにかをやるたびに新たな表記(名前)を用意して、それもよくありそうなありふれた名前を。「内田実」とか「吉川健次郎」とか「和田正一」とか。さすがに、いちおう男性の名前ね。そうすれば、いちおう形式的に、というか、論理的?には、私は、常に誰にとっても「初めてみる人」になる。そして、もしその人が和田正一という私を面白がってくれてまた見たいと思ってくれても次は違う名前なので出会える確率は低くなる。一見さんお断りならぬ、二見目以降さんお断り?もはや「表現」の同一性とかどうでもいいし、表現の同一性に支えられた「自分」を表現したいわけではないし、私のやることが、誰かにとってのなにかのきっかけ、歩いていて軽く躓いた小石、くらいになるのが望ましいので、それなら最後に表現の同一性=自分を保証する「表記」の同一性すらなくてもいいんじゃないか、とか思うけれど、言う(書く)だけならどうとでもなるし(実施がいちばんむずかしい)、ややこしいし、結局は「同じ人」だし、そんなにやることにばらつきがあるわけでもないし、みんなにうっとうしがられそうなので(もしそういう人が身近にいたら私自身、ちょっとめんどくさいなこの人、と思うだろう)、実行にはいたらない。たとえば、なにかに誘ってくれたひとにどう説明したらいいか分からない。「毎回変わる人名」がユニット名なんです、とでもいいえばいいのか。めんどくさいなそんな人。