前回か前々回かたぶん前回だけれど、の「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」に2ヶ所「ピー」で自主規制されているところがあるらしく、らしく、というのは、基本的にファイルを送ったあとアップロードされたのを聞くことがないからで、聞きたくないとかいうことじゃなく、単にポッドキャストを聞く習慣がない。ipodとかあれば、歩きながらとか電車に乗りながらとか聞けるのかもしれないけど、音楽番組じゃなくて、人がしゃべったりする言語情報でできているポッドキャストは、「ながら聞き」があんまりできない。だから、聞いているあいだずっとパソコンの前で聞くしかできないのがなんだか嫌でポッドキャストを聞く習慣がない、というよりも、うちのバイオはディスプレイにくっついているスピーカーがちょっとおかしく、音を聞こうと思ったらヘッドフォンで聞かないといけなくて、ヘッドフォンで「ながら聞き」は音楽以外だとちょっとむずかしいというか、ポッドキャストをヘッドフォンで聞くと言語情報が妙に直接やってくる、というか、ポッドキャスト(の内容)と向かい合っているような感じになるので、「ながら聞き」ができない。というのもあるけど、どっちみちうちのバイオのスピーカーがおかしくなくてもおそらく同じことで、ディスプレイにスピーカーがくっついているということは、ディスプレイを見ているあいだ、スピーカーにも向き合っているということで、そういう状況でスピーカーから流れてくるポッドキャストを、CDプレイヤーで流している音楽を「ながら聞き」するように聞くのは難しいんじゃないか。うちのコンピュータまわりの環境だと、どうやっても、ポッドキャストと向かい合わないといけなくて、気楽に「ながし聞き」がなんとなく難しい、だからポッドキャストを聞く習慣がない、のかどうなのか、いまひとつ判然としないけれど、ポッドキャストを聞く習慣がないのと、映画を観る習慣がないのは、たぶん同じような理由による。あ、でも最近は借りてきたDVDは観るな。映画館では観ないけど。だから、映画を観る習慣がない、なぜなら2時間くらいの時間を拘束されるのが嫌だ、っていうのは当てはまらない。ああ、そうだ、「ピー」が入ってますよ、というはなしで、固有名詞、人の名前に「ピー」が入っていて、否定的な文脈で名前を出すのがまずいらしく

築港ARC(正式名称:アートリソースセンター by Outenin )とは、大阪市と財団法人大阪城ホールが平成18年度から実施している「芸術系NPO支援・育成事業」において、公募で選ばれたアートNPO・應典院寺町倶楽部が運営するアートプロジェクトスペースです。

とのことで、行政が絡んでいて、否定的な文脈で名前を出すのがまずいとのこと。というか、もしなにか苦情が来た場合、誰が責任をとるの?ということで、誰もとる人がいないので、こうならざるを得ない。といっても、今回のは、万が一にも名誉毀損とかそういうややこしいことにはなりっこないくらいのレベルなのだけれど、それでもやはりリスクはリスクというか、リスクという言い方はおかしいな、行政にしたらなんのリターンもないわけで、どう転んでもマイナスにしかならないことをあえてやる必要がない、ということが暗黙のルールというか価値観として行政と築港ARCのあいだで共有されているんだろうなあ、そりゃそうだよなあ、こればっかりは。でも今回の場合、ぱっと見(聞?)には否定的でも、よく聞けば否定的なわけでもないのだけれど、そういう微妙なところは行政には伝わらないのだろうし、別に該当箇所で名前が分からないからといってどうということはないけれど、「ピー」が入ると、事情を知らずに聞く人にとっては「なんだろう?」「なんかきわどいことを言っているのか?」ってことになってなんだか思わせぶりなわけで、ぜんぜんなんらきわどいことは言っていないので、申し訳ない気持ちになる、というと言い過ぎで、言い過ぎじゃなくて言い間違いですらあって、たんに思わせぶりなのがちょっと気持ち悪い。「ピー」が入るのが嫌なんじゃなくて、その結果なんだか思わせぶりになるのが変な感じだなと。というのは、ちょっと前に築港ARCでアサダ君と話したときにも出た。「ピー」を入れて逃げるのは最終手段だけど、「ピー」を入れるとなんだか思わせぶりになると。隠されると気になると。それを言うなら、高橋悠治「きっかけの音楽」の装丁の、書名と著者名を囲む四角の罫の太さが違うのは一体なんなんだろう。昨日、天満橋ジュンク堂で改めてじっくり見てみたらそうだった。おそるべし。書体と合わせてるのかどうなのか。内容も面白そうだけれども、そのうち買うかもしれないし買わないかもしれない。この前の日記で『自分のやりたいことでお金がもらえなくても、バイトしながらでも、自分のやりたいこと・好きなことをやる、というのは素晴らしいと思う反面、微妙な違和感もあるというか、なんといったらいいか。この違和感はなんだろう。』と書いたけれど、違和感というとネガティブな違和感というか、否定的なニュアンスがあるし、そう解釈する人の方が多いとは思うけど、どっちかというと、ポジティブ/ネガティブ以前の違和感というか、違和感という表現がまずいのか、ひっかかりというか、アキレスにとってのアキレス腱というかライナスにとってのライナスの毛布というか、という比喩はぜんぜん「言い得て妙」じゃなくて、これ以上はこれからの課題ということにして、これはいつもいつも書いているけど、そしてかなり語弊があるけれども、初対面で「なにかつくってるんですか(やってるんですか)?」「作家さんですか?」「アーティストさんですか?」とか聞いてくる人(これはやっぱり自分でも「なにかつくっている人」だけれど)がほんとに嫌で、というほど嫌じゃない場合も相手によってはあるし、よくよく考えてみたら別にそう嫌でもないというか、わざと「嫌」と書いているようなフシもあるし、「嫌」って「書く」と書いた時点ではほんとに嫌になるので面白くて、でも実際遭遇したときにはそんな嫌とも思わなくて、「嫌」っていうよりも関わろうという意欲をすこし削がれるくらいで、結局のところこの質問の次元は「趣味はなんですか?」「どんな音楽を聴いているんですか?」「どこに住んでいるんですか?」なんかとまったく同じだし、「なにかつくる」ことを軸にコミュニケーションをはかろうっていうのがどうしても馴染めない。こうこうこういうことをやっているんですよー、などと具体的な「やっていること」をことばや記録物で伝えたところで、お互いふーんっていう感じでなんらはなしが盛り上がるわけでもないのは身に沁みて分かっているし、そもそも不毛なのだ、こんなことは。「なにかつくる」ことと、「自分の趣味(好み・感覚・センスという意味での)」とが、同列に扱われることが気持ち悪いというのもあるにはあるけれど、というか、そのふたつがほとんど同じだ、というのが、実はいまの当たり前の感覚なのかもしれないけど、とにかく会話でいちばん面白くないのは、あれ知ってますか?あの人知ってますか?あれ見ましたか?あれ読みましたか?あれ聴きましたか?あれいいですよね?というような情報の羅列だけが発展もなく延々続くやつで、これはほんとにつまらない。情報交換なんてどうでもいいし、そもそもこういう時の「情報」ってたんなる固有名詞(ラベル)でしかないし、それ自体なんの動きや変化もない固有名詞だけを交換しあったところで、お互いになんの変化もないわけで、そのような理由でつまらない。といっても、それも「しょうがない」場合がかなりあって、もうこれは我慢するしかない。前回の日記で『そういう人たちをまとめて「アーティスト症候群」として「外側」から揶揄するのはとても簡単だけれど、』と簡単に書いたのを反省して、昨日、梅田の紀伊国屋大野左紀子「アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人」を探してみたけど見つからず、今日、六甲のブックファーストにあったので改めて立読み。前に三宮のジュンク堂で立読みしたときは、書いてあることはまさしくそうだと思うけれど著者が自身を元「アーティスト」でありいまは「アーティスト」ではないと書いているのがすこし気になって、いま巷に溢れる「アーティスト」たちを「昔の自分を見るようだ」と外側から眺めているような感じがある。とあるブログに『本書、「アーティスト症候群」は、「元」アーティストによるアーティスト批判。いわば自己批判の一冊である。』とあったけれど、厳密には自己の批判じゃなくて「かつての」自己の批判、非自己として切り離した自己への批判だろう。というかむしろかつての自己をいまの自己から切り離すための批判なのかしら。いま活動しているたくさんの「アーティスト」のための批判ではなく。とか、立読みしただけのくせになにを偉そうに。と言いたいし、こういうのは身に覚えがあるなあ。私がラップトップミュージックというか音楽におけるコンピュータについて語るときとか。コンピュータが壊れた、っていうのもあるけれど、実質1年前くらいからコンピュータを音楽、というより、自分の活動の道具に使うことをやめていたわけで、なぜかというと、これ以上どう使っていいか分からないからで、たとえば、いわゆる「ラップトップミュージック」、それかたんに「ミュージック」内で音楽をやるのであればなんの問題もないし、それともコンピュータというテクノロジーでもって音楽なるもの自体に働きかけるのであってもなんの問題もない(これは「メディアアート」と言い換えても構わない気がする)。でもだんだん、「音楽なるもの」ないしは「コンピュータというテクノロジー」ではカバーしきれない、というか、うまく扱えないことに興味を持ってきたようで、と同時に先述のふたつの方向のどちらでもない方向を探るのにも挫折したために、そうなった場合、無理に使う必要もないので、と思っていたら、音楽用に買ったibookが壊れた。というわけで、大野さんがおっしゃっているようなことはもっとおおっぴらに言った方がいいと思うし、とか立ち読んだだけのくせに言えるのかどうかというのはさておき、なーんにも言わないよりは言った方がいいわけで、なんでみんな「なにかつくる人」になりたいのか、なるのか、ということなのだろう。そして結局のところ「なにかつくる人」がつくるものは「私はこういうのが好きです(これが私の趣味嗜好です)」ということを言うためのものでしかなくて、という断定的な物言いはちょっとどうかとも思いつつ、とはいえ、なにをどういう考えでつくろうと個人の趣味嗜好(一般に自己同一性だとされているもの)を反映しないものは難しい、というより、趣味嗜好が自己同一性だとされること自体がおかしいのだと思うし、だからこそ趣味嗜好の同一性を保持するためだけに「なにかつくること」すなわち「アート」とか呼ばれるものが利用されているだけだ!とか言うのはぜんぜん面白いことじゃない。というのは、いまのはなしの流れでいくと、真の「アート」/偽の「アート」というふうに自然になってしまうわけで、それがそのうち真の「アーティスト」/偽の「アーティスト」ないしは、「アーティスト」/「クリエイター」というような単純でなにも生み出さない対立軸をつくってしまう、のが面白くない。「本物」は自然に残っていくものだ、とか。面白くもなんともない。ではどう考えたらいいか、というのをここ1年くらい頭の片隅に常に置いているような気がした。いちばん簡単なのは「アート」とか「芸術」っていう括りをナシにしちゃうことで、なにかを生産すること及びそれに準ずる行為を全て「表現」だと見なして、現行の「アート」・「芸術」をその一部分にしてしまう。頭脳であれ身体であれなんらかの「働き」があれば、それは全て「表現」。その結果として、なんらかの物や事が生じない場合であっても。うーん、結局いっしょか。ラベルが変わるだけで。不毛な命名(範囲指定)ゲームか。そもそも、だからどうなんだ、という。うーむ。「アート」とか「芸術」をそれじたい実体があるかのように考えてしまうのがいけないのか。昨日うっかり天神橋筋商店街の古本屋で、名前は忘れたが、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」が1000円で売っていて、ちょっと読んでみたら、以前違う古本屋で、同じ天神橋筋商店街の、ちょっと読んでみたときより面白そうだと思ったので、買ってみて、1000円です、袋はいりません、ん、じゃあ1000円を消しとくわ、と古本屋のおじいは消しゴムで1000円(という文字)を消す。「うっかり」は「買ってみて」にかかっている。デリダについては、たしか、だいぶ前に上利博規「デリダ (CenturyBooks―人と思想) 」と、守中高明「思考のフロンティア「脱構築」 」を読んで、面白そうではあるけれどなんのことやらという感じで、そのときの私には、簡単そうな本ですらひっかかるところがなかったようなので、デリダに対して、敬して遠ざけるというほどではないけど、敬して近づけないみたいな感じだったけど、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」は分かりやすいというと嘘になるけど、うーむなんじゃこりゃ、というのはいまのところないし、読みやすくはある。たしかに「脱構築」(という手法というより身振り?読解法?仮に読解法だとするとあらかじめ読解法が仕込まれた芸術作品ってことになるのか?)が芸術に応用(援用?)されるのは分かるというか、分かるけどちょっと危険というか、たんなる強弁になるだけの危険性があるような。いや、まだよく分からないけども。別に「脱構築」に限らず、「意味」とか「因果」とか「自我」とかを相手にしようとするとき、たんなる強弁でしかないように見えることがある。そう「言ってる」だけにしか見えないという。言ってることを客観的には確認できないから。でも確認できないのが悪いんじゃなくて、そうならざるを得ないわけで、そこが難しいところ。でもほんとうにそうならざるを得ないのか?と思ったりする。いや、確認できないからというよりも、そう「言ってる」範囲内では言っている通りなのだけど、その範囲を出ればそうではない、のが気持ち悪いのだ。出れちゃうのが問題なんじゃなくて、「言う」と「範囲」がセットなのを意識しないのが悪いのかしら。あと、パロールとパフォーマンス、エクリチュールと記録物は対応しているような。記録物においては、「脱構築」というのかどうか分からないけど、たぶん私が思い浮かべていることと同じような感じがするのでそのままいくが、「散種」が与えられうる。そしてパフォーマンスにおいてはどうやってもひとつの「多義性」に収束する。というようなことを「存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」を読みつつ考えるけれど、うーん、どうだろう。どうだかなー。マルクス資本論 1」はやっと、「第一部 資本の生産過程 - 第一篇 商品と貨幣 - 第一章 商品 - 第四節 商品の物神的性格とその秘密」にたどりつく。もうすこしで第一章が終了。保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「8 われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」を引き続き。奥野正寛「ミクロ経済学入門」は「第2章 家計の行動と需要曲線 - 7 エンゲル係数と所得弾力性」のところ。ボードリヤール「物の体系」とバフチン「言語と文化の記号論」カント「判断力批判 上」はしばしお休み。といってもカント「判断力批判 上」はご飯の前にちょびっと読んだ。なんかやっぱりその言い方が面白い。