いまナガオカケンメイさんが情熱大陸にでている。録画しといて、リモコンのこの赤いボタンを押せばできるから、とのことで、録画もしている。ナガオカケンメイさんが自分を称するときにいう「デザインをしないデザイナー」というのは、「使い捨て」のためのデザインをしない、という意味なのだなと腑に落ちる。そういう姿勢でデザインを考えると、一般的な意味でのデザインをしないということを意味する。私なんかが、ほとんどのデザインは必要のないものだ、必要という覚悟を持たないものはそもそも必要ではない、などと言っても説得力がないけれど、ナガオカケンメイさんが言うと説得力があるのではなかろうか。エンツォ・マーリさんやナガオカケンメイさんを見ていると、デザインをしたい!なにかつくりたい!というデザイナーはそもそもデザインに向いていないのではないかとも思えてくる。エンツォ・マーリさんやナガオカケンメイさんは、自分の思考を実践し世界に働きかける術として、デザイン(という思考の方法・実践の方法)を選んでいるのであって、間違っても新しいなにかを自分で作りだしたい(自己表現をしたい)わけではない。たぶん、いまの時代、デザインがいちばん浸透力(実践力)のある術だから、それを選んだのだろう。(こんなことを書くとものすごく怒られそうでもあるけれど、いまの時代の決まり事(消費の論理)に乗っかって「デザイン」をやったところで、何の・誰の役にも立たないし、デザインは自己表現でお金をもらえる一石二鳥の仕事なんて甘っちょろいものではないだろうし、なんて偉そうなことを書いて非常に申し訳ないという気持ちを持つよりも、一生かけて考えていきますからすいませんすいません、と書いた方がなんとか許してもらえそうな気もするし、ここでいう「デザイン」のところを音楽にしても絵画にしても写真にしても文学にしても建築にしても料理にしても経営にしても、たぶん、文として、成り立つ)おそらくエンツォ・マーリさんはそのような意味での「デザイナー」と区別して、プロジェッティスタ(プロジェット=企画、をやるひと、企画者)ということばを使うのだろう、と思って調べたらイタリアではデザイナーということばの代わりによく使われるものらしい。→http://blog.livedoor.jp/wsff2102/archives/17716899.html そういえば、エンツォ・マーリさんはきのう、「世界は技術では変わらない」と言っていた。猫が、これなんやったかな、kotobuki60のなんていうモデルか分からないけど、調べれば分かるけど、いま調べたら、剣持勇デザインの「バンクチェア」のモケットグリーンのうえにおいたクッションというのか薄い座布団というのかそういうののうえで眠りはじめた。丸くなっている。「使い捨て」にされるつもりはないけれど、「結果的に」であっても、使い捨てされてしまうようなモノやコトは、たぶんつくる必要がないし、やる必要もないのかもしれない。とか考えるとなにもつくれないしなにもできないのだけれど、なにもつくれないしなにもやれない、という恐ろしさをまずは受け止めたい。というより、そもそも「大丈夫、あらゆる意味で誰も頼んでないから」。→http://mountainofart.blog18.fc2.com/blog-entry-49.html