最近22時くらいになると眠い。ひょっとしたら、朝方イヤーな夢を見て起きてしまってなんとなく寝れなくなるから、というのもあるかもしれない。ベンチャー企業の若き社長たち(CEOってなんなのか、いまだによく分からないけれど興味はある。なんでそういう呼び名にしなきゃならんのか、とか)の飲み会に彼女とうっかり参加してしまい、割り勘がひとり当たりいくらになるのか不安でしょうがない。店を出て二次会のようなものに向かう途中、人通りが多く坂道になっている商店街のようなところを通るのだけれど、そのベンチャー企業の若き社長たちは自分たちのカバンやらジュラルミンケースみたいなのやらを無造作に道に置いていく。で、ベンチャー企業の若き社長たちの若き部下が道に放置されたカバンを拾って運んでいく。それを拾わないと、なんで拾ってこないんだ!カバンがなくなった責任をとれ!とか言われるらしい。かわいそうなので、私も持ってあげるが、若き社長たちの振る舞いが気持ち悪くてしょうがない。でも文句はいえない。どうやら私も若き社長たちの部下のひとりらしく、どんなに嫌な上司や先輩でも上司や先輩であることには変わりない。そもそも私は「先輩」とでもいうべき関係性があまり得意じゃない。自分が後輩になろうが先輩になろうが、先輩/後輩関係があまり得意じゃない。先輩→後輩という力関係も、それを逆手に取った後輩→先輩の力関係も得意じゃない、というより、面倒臭くてしょうがない。でも私は優しいので、先輩ぶりたい先輩にはちゃんと後輩ぶってあげる。逆になぜか先輩ぶりたくなることがあるのは相手が後輩ぶっているからなのか自分にもそういうところがあるからなのか。エンツォ・マーリ「プロジェクトとパッション」がようやく出たみたいで、みすず書房のサイトに載っている。http://www.msz.co.jp/book/detail/07390.html そういえば、長崎県美術館(長崎県「立」美術館じゃないのだ)の講演会でお見かけしたマーリさんは、とび職の人たちが履いているみたいなズボンを履いていた。13時半よりよしざわと会う。雨がひどくなる。貸しギャラリーとかライブハウスとかの「スペース貸し」ってたぶん当事者が思っている以上に問題がある気がする。物理的なスペースをまず持っていて、そこに「発表の場」という文脈もついている、っていうのはそれだけで価値があるというか資本を持っているともいえるけれど、だからといって、その「場所と文脈」をそれを持たない誰かに貸してお金をもらおう、っていうのは簡単すぎて芸がない。1週間、または一晩、わたくしどものスペースを〜〜万で貸してあげます。展示方法やら機材やら相談には乗りますが、規格外の(面倒臭い)ことはできません。搬入搬出DMはご勝手にどうぞ。というそれこそ「貸しっぱなし」のやり方は逆に借りる方の「やりっぱなし」をも助長するような。そして貸しっぱなし/やりっぱなしばかりになると、貸し手にも借り手にもマイナスな気がするけどどうなんだろう。お互いにやりとりをしながら共同で展示なりイベントなりをつくっていく、っていうのがあらゆる意味で大変だから、ごちゃごちゃ言わんから金だけ払ってくれ、もしくは、金は払うからごちゃごちゃ言わんと場所だけ貸してくれ、っていうふうになるんだろうか。オーナーからしてみれば、こいつ(ら)のやってることにはなんら魅力を感じないけれど、お金がもらえるんならいいか、という気持ちなのか。借りる方からしてみれば、お金さえ払えばオーナーからいろいろ言われることもなく好きなようにやれるから払っとくか、という気持ちなのか。とはいえ、申し込みがあった時点である程度の絞込みをやっているだろうし、つまり、あまりにもスペースのイメージと合わない場合は断られるんだろうけど、でも逆にいえば、そういう審査のようなことをするくらいならはじめから、お互いにやりとりをしながら共同で展示なりイベントなりをつくっていく、方向にすればいいのにとか思う。それができない人だけ断ればよい。それか、逆にどんな人にも無審査で無条件に貸し出すとか。とにかくなんか中途半端なのだ、貸しギャラリーとかライブハウスとかの「スペース貸し」って。マンション経営とはまったく違うのに、空いてるから金とって貸しとくか、みたいなノリってなんなんだろう。自分のスペース内で行われていることにも関わらず、貸してるだけだから責任もてません、ってなんか変。なら責任もてるかたちでやればいいだけじゃないのか。頑張っているあなたに発表の場をご提供します、みたいなキャッチコピーのうらで、「創造する権利」の売買が行われている。なんか変な気がするけど、どうやろ。「創造する権利」ないしはそういう肩書(アーティストでも美術家でも芸術家でもミュージシャンでも音楽家でも写真家でもなんでもいいけど)って事実上、お金で買わないといけないものになっているような気がして、別にそのことにどうこう言いたいわけではなく、創造・創作しても「発表」しないかぎり、社会的にはその創造・創作は存在しないわけで、「発表」のためにお金がかかるとなれば、創造・創作の権利をお金で買わないといけないことになっていると言えなくもないわけで、わけで。わけで、なんだろう。お金で買わないといけないのがおかしい!と思うわけではなく、なんだろな。単純にそういうのって面倒臭いな、というだけかもしれない。それでもやる、ってすごいな、、という。人間の特性というか一種の能力としての創造・芸術(行為)と、社会制度としての創造・芸術(行為)が、もはやひとつのことばで名指されているとは思えないほどに、離れていってしまっている、という受け入れるほかない事実の確認??人間の特性というか一種の能力としての創造・芸術(行為)というとき思い浮かべているのは、「つくる」能力だけじゃなくて、より一般的に、素晴らしがる能力、面白がる能力、美しがる能力のことで、で、なんだろう。もう、ない。うーむ、「受け入れるほかない事実」って書いたな、いま。こう書くと、離れていってしまったふたつをまたひとつにしなければならない!みたいな方に行きやすいけど、それもなんかどうかというか、現実的じゃないし、なんというかそういう問題でもないのか。なにかつくっている(やっている)なら発表しなきゃならん!みたいな強迫観念ってどこから来てるんだろ。それはそれで変よね。いまのこの文章の文脈からいえば、つくるのならちゃんと権利を買ってくださいよ!無断創造はダメですよ!っていう社会制度からの催促よね。ああ、いや、たいていは発表するためにやっているんだから、それはそれで当たり前よね。つくったものを人に見せることによって、「それをつくった自分」も人に見せる、ということよね。そのことで、人はなにを得ているんだろうか、ってことよね。創造することとその結果を他人に見せること(の権利を買うこと)によって、どんな欲望を満たしているんだろうか、ってことよね。数日前からフアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」を読み始める。

穀物倉に着き、トウモロコシの温もりを感じた。虫に食われてはいないかと、ひとつかみ手に取ってみてから、どのくらいまだ残っているか調べていたが、「だいじょうぶだ」とつぶやいた。「牧草が生えてくれば、牛にトウモロコシをやらなくても済むし、これなら余るくらいだ」
 帰りしなに、雲に覆われた空を仰いだ。「当分雨も続きそうだしな」そう思ったとき、それ以外のことはすでにすっかり忘れていた。

佐々木健一「美学への招待」は第六章「全身を耳にする」の「5 天空の下の存在」を読み終えたところ。この本、かなり面白いというか、おお、確かに、と思うことが多い。「質料と形相」を「素材とかたち」って言い換えるところで、ここは本筋とはあまり関係ないけれど、アリストテレスの「質料と形相」がちょっとだけ理解できた気がした。小田中直樹「ライブ・経済学の歴史」は第6章「企業」を読み終えたので、次は第7章「失業」。ケインズが出てくる模様。あとはブルーノ・ムナーリ「芸術としてのデザイン」を再開してみる。